kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘自問自答’


『ネジ、ボルト・ナットそしてワッシャー』


   


     10月 4th, 2017  Posted 12:00 AM



五大器械がいわゆる機械工学のスタートです。
それは機械工学の教科書やハンドブックの最初に出てきています。
テコ・コロ・滑車・くさび・ネジです。
私は美大時代、いよいよ製品デザインの演習時から、
この五つから逃れるデザインを目指してきました。
特に、ネジについては、卒業制作でスピーカーシステムを製作するときに、
大阪の日本橋でプラスチック製のネジ=ボルトを見つけて狂喜しました。
ところが最終プレゼで、ボルト+ナットがあるがワッシャーがないと指摘。
これはトラウマになっています。
それは私が交通被災で胸椎圧迫骨折の手術を受けて、
そのレントゲン写真でびっくりしました。
ステンレス板を上下、ボルト・ナットで締めましたが、ワッシャーがなくて、
私はドクターに専門家として、「これは必ず緩む」と言いましたが、
「絶対に緩まない」と回答。
結果緩んでしまい、それから緩まないボルト・ナットを懸命に探しました。
以来私は体内に埋め込む医療機器に大きな興味とその専門家になると決め、
それが医科学の学位取得にまでなりました。
そして自分デザインでは美大時代からもボルト・ナットそしてワッシャーを
絶対に使わないことにしてきました。
ボルト・ナットを人類が最初には何のために使われたのかを探しています。
もうここまでくるとそれはオカルト的な話になりますが、
3億年前にボルトありの史実がありますが、ほとんど謎だと思っています。
ボルトの形状の源流は、三角形斜面を円筒形に巻きつけたコロでしょう。
そして、緩まないナットには楔が入ります。
それこそ、森政弘先生の特別講義で
並み居る有名教授にこんな質問が飛びました。
「なぜ、ボルト・ナットは緩まないのか?、君、答えなさい」、
この質問がその分野では超有名教授に飛びました。
しかし、周囲に同意を求めながら、答えに窮していました。
正直、私も初めての質問であり、なぜなのかと自問自答をしてみましたが、
まったく不明でした。
答えは、「ボルトが伸びていてそれをナットがその伸びを食い止めている」。
この答を聞いたとき、実際、我々が五大器械のもう一つ
その奥に潜む物理現象には無知だと思っています。


* 「想定外ではないはずだ・ボルトは必ず緩むモノだ!」
* 『デザイン対象となる医療関連の開発について』
* 「ICDは経皮充電可能である、しかし」
* 「除細動器埋め込み入れ替えより生還」
* 『セルロース素材によるわが国の基幹産業化』


目次を見る

1月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

1月4日 大安(乙酉)


徹底した「美しいデザイン」。
その発想には
美しさとは何かではない。
「何が美しいか」の
自問自答である。

デザインでの問題解決は、
「何が美しい解答」か。

これはプラトンが
すでに決定をしていたことだ。



川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『デザインには発明が必要だということを学んだ作品』


   


     7月 25th, 2014  Posted 12:00 AM



大学時代、デザインと造形の関係において、
造形によって、問題解決の解答を造形で答えることを学びました。
「発明がない!」と、故・柳宗理先生はよく言っていました。
私は東芝で最初にびっくりしたのはチューナーのデザインでした。
ST-910(左上)は、まだFM局が日本には2局しかないのに、
ガラス面にセンサー技術での選局システムが上司のデザインで、
すでに完成していくデザイン進化を技術とデザインで見ました。
そして、上司の指導というよりも、
「思い切った発明で選局」のシステムST-720(左中)づくりを
アシスタントデザイナーとして詳細な設計を技術指導できました。
そして全面的には、通常なら選局パネルがすべて上を真下に提案、
ST-420(左下)、上司は大賛成で、それなら、メータも変えなさい、
もう毎日が楽しくて、事細かにデザインで生きている実感でした。
そして、最も普及タイプのデザイン ST-220については、
パネルに、選局名を入れ、鏡面に針を映し出すことで、
普及タイプを仕上げて、ヒット作にすることができました。
しかし、これには深い思い出があります。
この製品企画で数枚の会議用のレンダリングを仕上げてから、
秋葉原に行きました、
そうしたら、すでに、チューナーは激戦状態で、
新製品を見て、大驚愕したのです。
すでに、レンダリング(完成予想図)で準備していたモノが
他メーカーから新商品で、秋葉原の大店舗では、
そのキャンペーンが始まっていました。
私は、すぐに会社にもどり、徹夜で、あらためて新商品企画を
やり直しながら、気づいたことは「どこにも発明」が皆無でした。
決して、他メーカーでは不可能なことをやり遂げるという想い、
会議前日に、必死で取り組んでいました。
私は、今でも、その頃の思い出を抱いています。
「このデザインには、発明があるだろうか」という自問自答です。
今ではチューナーはインターネットラジオになってしまいましたが
チューナーでのこの代表機種全てに「デザインによる発明」です。
だから、あきらかに言えることは、
「デザイン=造形が必ず発明」は必要十分条件だと思っています。

「ヘッドホンにはヘッドホンアンプ必要なり」


目次を見る

「マスクか、ペルソナか、マスカレードか、今のデザイン」


   


     8月 29th, 2013  Posted 12:00 AM



自分のデザインは問題解決での最適解のはずですが、
現代の情報社会の中での自問自答をいつもしています。
・マスク=覆面だろうか、
・ペルソナ=個性表現だろか、
・マスカレード=仮面舞踏会だろうか、
このような問いかけをいつもしている自分がいます。
理由は、自分自身へ自分だけの「問い詰め」を試みたいからです。
私には、確実な自分のデザインに対する自負心と羞恥心も、
ほとんど混在したままにしておきたいと思ってきました。
確かに何かを隠そうとしている自分=マスクの時もあれば、
明らかに自分個性=パーソナリティを表現=ペルソナ時もあり、
まさにどこかでこの時代に、
「ごとくありたい」=仮面舞踏会に参加気分もあるわけです。
結局、真実にデザインを問題と対峙させたときには、
覆面の中に自分を追い込み、
個性を隠そうとする自分が明らかに、
宗教儀式じみた科学への感性と芸術への知性を確認していることも
絶対に私にはある、あるはず、と言い聞かせています。
そして、私自身を追い込んでいくのは「行学の士」になりたい、
それだけを目指して車倚子生活ゆえに地球は二度目の生命です。
絶対に負けられないこと、
それは欧米の先進国家以上に芸術の知性と科学の感性を
次世代のデザイナーに、私の体験の全てを残したいのです。
ともかく、「私はデザイナー」という軽薄さは全否定です。
デザインは崇高で有り知性と感性で「美」だけを信じてきました。
特に、最近はもう残された自分の時間を思うと、
絶対に許せない輩には、全身全霊で闘争をする覚悟です。
とりわけ、この「国難」を3.11に受けて以来、
前政権の知性も感性も皆無だった知能に呆れてきましたから、
絶対に逃走はしません。闘争あるのみです。
マスクを被り、ペルソナを秘め、そしてマスカレードでも、
私は嫌な奴には立ち向かいます。


目次を見る

「ブランドが語りきろうとする高密度品質とは」


   


     9月 25th, 2012  Posted 12:00 AM



私は、文房具というアイテムにおいても、
これだけの品質と、そのデザイン展開で「最高品」を選ぶとするなら、
やはり、このブランドになります。
私にとって、ノートはスケッチブックでもあってほしいのです。
当然ながら、大きさ、紙の高密度、
そして記録としての保存性を確認すると、
このシリーズノートはほとんど完璧だと評価しています。
だから、なかなかペンを走らせるとか気軽に使えるかというと、
高価格なモノゆえ、正直、怖いほどの緊張感がありますから、
日常的な気楽さで対峙するというわけにはいきません。
しかし、翻って考えてみれば、自分のアイディアを前頭葉に集約するには、
これだけの品格・品質・上品性をまず「目の前」に置いたとき、
自分のアイディアそのものが、
高密度な想像性と創造性を遠慮無く差し出せるものだろうか、
そのような自問自答をこのシリーズノートに、
スラスラと発揮できるかどうかに繋がっています。
結局このブランドが相当な高価格ゆえの品質への詳細で精微なモノとして、
その完成度を基準化しています。
私は、このシリーズノートには、
自信をもってあるプロジェクトの発想の原点を描き込むこと、
それこそ、
発想の決断を自分に問い直している自分自身に出会うことができます。
ブランド、それは「牛の焼き印」が原意でしたが、
現代では、企業メーカー・作り手が、
ユーザーにこの品質・品格・品性を問い詰めてくるのです。
ということは、ブランドが提供しているのは、
安易な「使い易さ」では無いということです。
<あなたは私たちの商品を手に入れましたね>
<さあ、あなたはコレを使いこなす決断を持っていますか>
<私たちがこの商品に託していること、理解できますか>
これほどの世界観を突きつけてくるのです。
ブランドが創出すべき最も重大なことは、
単なる性能や機能や効能だけでは無いということです。
自分の物欲を果たそうとする決断、「覚悟」までを問いかけているのです。
それだけの「モノづくり」こそ、ブランド、
その存在性の証こそ、「焼き印」なのです。


目次を見る

「不条理・パニック、リトルネッロ論」


   


     5月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

突然、自分への災難は不条理です。
自分への天災・人災ともに自問自答を反復。
自分自身への不明さ不条理詰問を繰り返します。
そして自責に疲労困憊すれば、
納得としての「諦め」という運命観が寄り添います。
私はこの「諦め」を「諦観」に昇華するのが日本人だと思います。
果たして未だに、この国難状況はパニックの中にあります。
私自身交通被災=全廃宣言(死亡と同等)という不条理、
28歳の私の身体への人災に直面した時、
パニックになれませんでした。
詩人マラルメの「牧神の午後」を動機にした、
ドビッシーの「牧神の午後の前奏曲」が耳鳴りにありました。
つまり「牧神=パーン」の憑依がパニックにすぎないという、
それだけの認識は、加害者を観察し見舞い客を冷静に見てました。
動物というより家畜と化した自分を従属させられないことから、
大混乱=パニックが取り憑いているにすぎないと思ったからです。
したがって、交通被災で「歩けなくなる」というドクター宣言は、
その旋律の中で鳴り響いてくれていたことを思い出します。
パニックという憑依現象の中にまだまだ日本は囚われています。
落ち着いて整然と「帰っていく」黙考に立ち戻るべきでしょう。
この「帰っていく」=リトルネッロ(ritornello)が必要です。
リトロネッロはイタリア的な音楽用語ですが、
この用語を援用した哲学には、死という不条理に直面し、
自分の破滅や消滅というパニックから危機感を、
自分自身の想像力の中に帰していくという位相体験を求めます。
トポロジカルな発想=可逆相が不可欠だと、
リトルネッロ論を提示した哲学者たちは書き残しています。
この発想にいたるには相当の疑似体験と決断が必要です。
したがって、「自宅に帰っていく自分」が見えない限り、
永遠にこのパニックに憑依されているということです。
夕焼けになって、遊び疲れた子供が必ず自宅に帰ること。
この保障が今最善の被災地パニックからの解放なのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「伝統工芸産地と波、幸運なスタート」


   


     7月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

自問自答の始まり
「そんなに、デザイン、デザインと言うけれど、
デザインで産地は生き返れるのか?」。
この言葉を投げかけられたことをいつも思い出します。
以後この自問は忘れたことがありません。
私の東京でのデザイナー経験が「何だったんだ」ということになります。
この自問自答に思い悩まなければならなくなった初体験でした。
私は、今も現役で、デザイナーとして製品開発から商品展開をしています。
が、この「問いかけ」を常に抱いています。
伝統工芸と波
30歳でした。ふるさと福井に帰って、もちろん仕事も無く、
夕焼けの日は、日本海に沈む夕日と波を撮影するために車で出かける日が連続していました。
興味の対象は「波」でした。
「波」のかたちは、決して同じかたち=形態のものはありえません。
そして、音響をデザイン対象にしてきた経験は「音波」でもあったわけです。
色彩も「波」でした。
私の中では、これから取り組む「伝統工芸・越前打刃物」と「波」が共存していました。
これが、今考えると「幸運」だったのです。
車椅子生活になったことは「不幸」でしたが、
「幸」そのものが実際はとんでもなく怖いことを示していることを知っていましたから、
「幸運」はすぐにやってきていたのです。
しかし、伝統工芸産地の職人さんたちに、
「だから、デザインなんだ!」と言い切れる自信は、まったくありませんでした。
その「自信」獲得のために、私はデザイナーとして振り出しにもどされていました。
私に覆い被さってくる「波」の形態を見定めるスタート地点では、
「歩けなくなった私」と「車椅子を必要とする私」を見詰めていました。


目次を見る