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Posts Tagged ‘解釈’


「博士号学位取得論文が一段落」


   


     9月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

昨日、いつものICD(除細動器)の定期検診を受けました。
エピソードと言われている心臓への機器異常は皆無でした。
良かった、というよりも、
今年度から博士論文指導では、
特に、Skypeで二人の学生はもとより、
研究室の学生までを罵詈雑言の限りでした。
「バカモン、何をやってる!」何度、怒鳴っていたでしょうか。
しかし、何も心臓異常は起こっていませんでした。
「パワーハラスメントでもなんでも構わん、
ヤレと言ったらやり通せ、その資料も読んでないのか」、
これをどれほど言うかというより叫んできたかわかりません。
『造形言語と形態言語によるデザイン造形の数理的解釈論の考察』。
『糖尿病を対象とした医工連携の問題解決による先端的デザインの研究』。
この二つが二人の学生それぞれのテーマでした。
デザインと言語的な解析を記号論と数理科学的な分析を試み、
もう一方では、
480万人の糖尿病患者はやがて2000万人と言われる健康問題へ、
医工連携への現実的な解決から未来的な解決のデザイン提案研究でした。
ようやく、私の研究室テーマである、
先端的かつ学際的なデザイン手法と医療系との融合を
二人の学生が専門家として、博士号学位論文にまとめました。
まだ、これからは博士前期課程の学生、その修士論文指導が始まります。
夜中であろうが、常に、
Skypeは繋ぎぱなしで私の怒号を彼らに与えてきました。
少なからず、私のデザイン活動はそろそろ幕を下ろす季節になりました。
私の社会的・教育的役割は、
これまでの知識と経験をできる限り語り尽くすことになっています。
これからこの準備原稿は
3名の副査教授のこれまた厳しい検閲が始まります。
それは主査である私自身が詰問されることです。


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「日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・」


   


     8月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

私の移動、その大半は飛行機です。
そして、プレミアムシートでは軽食が出ます。
その軽食の種類、量、
パッケージが段々とコストダウンをしていくのを見ると、
「貧乏になっていくなー」と感じます。
敗戦後、日本は「豊かな国、国民になろう」と考えました。
結果は、貧乏だというのはお金が無いこと。
お金があれば「豊かになれる」と思ったのが、気がつくと、
それは「豊かさ」とは全く違うことがやっと分かったのでしょう。
最近は、格安航空券ブームです。
したがって、この軽食の質も格段にコストダウンをしています。
シャンパンがまずブランド品から格下げになり
スパークルワインになりました。
最も明解なのは、ファーストクラスの食事など、
「これが?」というほどになっています。
無論、それは一部のことだと言えますが、
「貧しい」ことの解釈が「豊かさの勘違い」を引きずったままだからです。
航空機会社ではファーストクラスを廃絶したところもでてきました。
世界的な傾向でしょうし、
それがスタンダードになっていくのだと思います。
私には未体験ですが、客船でも1等客室も2、3等客室でも、
食事は平等になりつつあり
それなら3等客室で十分という話を聞いたことがあります。
つまり、「貧乏」というのは、
「贅沢」との格差、その感じ方だと思います。
「贅沢さ」=「豊かさ」ではありません。
「貧乏」=お金が無いことではありません。
今、私たちに問われているのは、可処分所得の高低が貧乏さを決定したり、
贅沢・豊かさ・貧しさ、ということへの、
自分自身がどのレベルで「心」を満腹に出来るかということです。
ちなみに、「心」とは武士道では「腹」にあり、
よって、「切腹」とは、
腹の清らかさを確認する自死行為だったということです。
だから「腹づもり=心構え」こそ、
貧乏も贅沢も切り捨てた美学だと思っています。


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「松岡正剛『ち』の根源=漢意による決定」


   


     5月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛は「連塾」のみならず、
ことばの定めとして「漢字原意」をよく語ります。
私も常に追い求めてきたのは「漢字の系譜」でした。
小学校時代に、藤堂明保博士の講演を聞きました。
しかも、藤堂博士は何度も福井にみえていたようです。
私は転校した小学校でも、また、講演を聞いたのです。
そして、父からも書における、
たとえば「月」という漢字の書形には、
形(天体)と容(身体)があることを教えられました。
書家であってもこうした表現への無知が増えてます。
私は40代になって、ようやくなぜ、
藤堂博士が福井での講演をし回っていたのだろうか、
その理由を推測できるようになりました。
漢字の解釈、甲骨文字から説文解字や金文体解釈などにおいて、
藤堂明保と白川静は正面衝突する解釈論議の真っ最中だったのです。
二人の対決は学者域を超えるほど凄まじいものであったことを知りました。
そこで、藤堂明保は白川静の出身地・福井で、
小学生に向けてまで彼の自説をアジテーションしていたのでしょう。
私は当然、ふるさと福井の偉人である白川静をこよなく敬愛し、
彼の著作はほとんど読破し収集していると思います。
そして、中国の象形文字解釈にまで自説を展開した白川静説こそ、
「漢字の原意」だと盲信してやみません。
松岡正剛氏も、結論として「漢意・古意」として、
その基盤を白川静説を確信しています。
そして、白川静についての著作、
漢字解釈の入門「白川静」決定論を書き上げてしまいました。
松岡正剛氏と「白川論議」は、
幕末論に至り、特に「橋下左内」にまで及びます。
なぜなら、白川静氏は「橋本左内」についても、
相当な研究者であり、橋本書簡の収集もされていたということです。
さて、今や中国語の漢字は省略形になってしまい、
「漢字」に込められた思想の根源を完全喪失しています。
私自身はそう思わざるをえません。
象形文字に込めらた思潮の根源は、
すべからく「白川静説」をもってこそ、
これは「東洋の思想・哲学」の根本を決定していると断言します。


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「絵画に惚れることの重大さ」


   


     5月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

絵画にはいつも目配りをしています。
それは美大で学んだこともありますが、
「絵が大好き」という天性の嗜好性があるからでしょう。
心臓疾患で長期入院162日間入院をしたことがあります。
ちょうどその時に、
以前から美術雑誌で見かけ心を奪われていた画家がいました。
彼の初めての日本展開催を知り、
妹にカタログ購入を頼みました。
その後、フランスで彼の画集を随分探し回りました。
しかし見つかりませんでした。
ところがそれは書棚の一番上に大量に並んでいました。
まさかそれほどの人気画家とは思ってもいなかったのです。
モンパルナス付近の美術書専門街でも、
そこの書店主は「家族全員が大好きだ」と告げられました。
フランスでは本当にポピュラーでした。
ともかく、大好きな画家はいっぱいいますが、
彼はその中でも一番です。
パソコンなどのデスクトップ画面は、
必ず彼の絵にしています。
あるとき、
グラフィックデザイナーから画家に転身した友人から、
「誰の絵が好きか」と尋ねられて彼の名を上げたら、
「買えばいいじゃないか」って、簡単に言われました。
「彼の名をあげるなんて最高にいいよ」と評されました。
私は「色彩論」を教えるときには、
彼の絵画での私なり解釈の色彩調和論を講義します。
この「サッカー」などを見ても明らかに、
具象性と抽象性、さらにマチエールもミックスメディア性など、
現代絵画を革新しています。
現代絵画と現代音楽は相通じるところがあります。
「絵画」と「音楽」は美学の対象分野であり、
私にとっては、デザインをするときの背景、
特に造形と色彩選びの基盤・下敷きであることは間違いありません。
そして、彼のこの絵が代表するように
世界の画壇に大きな影響を与えるものとしてスターになりました。
これからさらに一般的にも有名性を獲得することを約束されました。
ところが個展準備の制作中、個展直前に自死しています。
どういうわけか、私は自死を選んだ画家が好きなようです。
フランスに行くと必ず彼の画集を探し求めています。
彼の作品で欲しい物が数点あります。
彼の名は「ニコラ・ド・スタール」です。
「絵画」を眺めるということと自然風景を見ること、
すなわち「鑑賞」するということの重大さを心眼にしていくことは、
きもちの振幅にα波を与えるようなものです。
このα波がいのちを活性化するのです。
このα波を絵画に込める苦難が作家を冥府に誘い込むのでしょうか。
デザインも絵画同様「鑑賞」してもらうことを願っています。

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11月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 3rd, 2010  Posted 10:00 AM

11月3日 大安(丁巳)

「言語道断」とは、
道元が発した禅宗の、
いわば哲学的な言説語である。

ことばでの表現が
全く不可能な世界観を示す、
「道断=言わず、道断=言わず」という
現成公案(=心理は常に
すべての存在の上に、ありのままに
はっきりとあらわれているという解釈)
の一つであった。

『デザインは言語道断』あとがき


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10月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 4th, 2010  Posted 12:17 PM

10月4日 仏滅(丁亥)

私は、漢字の由来が大好きである。
特に、象形文字は、
シンボル化された形象に原意があり、
そこからあらたな解釈や意味の文脈が
広がってくる。

その想像力の整合性が美しいとすら思う。

『デザインは言語道断』学際


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『資本主義からの逃走』
   「問題解決にはデザイン的な手法を」


   


     9月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

解とは
時代は大きな変容を招いています。
しかし、その変容を受け入れる世界的な体制を怖がっているのかもしれません。
結局は問題解決でこの恐怖と対峙していくことです。
新しいことは、必ず問題解決に寄り添っています。
だから、問題を解決する方法がもっと詳細に考察されるべきでしょう。
デザインは、問題解決の実務的な手法です。
しかもそれは解決をつけた結果を「かたち」にすることができます。
ただし、その「かたち」は見えるモノもあれば、見えないコトもあります。
私なりの「解決」を紹介することにします。
これは文字「解」一つに集約しています。
この象形文字は、まさに角のある牛と刃物で構成されています。
見て分かります。角のある牛は、古代中国では「物」の原義でした。
つまり、物を刃物で切り裂いていく行為を表しています。
問題解決の三段階

 ■ 第一段階・分解したり、解体したり解剖します。
 ■ 第二段階・分解した物を解釈、解説、理解する必要があります。
 ■ 第三段階・理解すれば、気持ちが解放されることになります。

この三つの段階を問題視している「物」=対象に向けていくことです。
けれども、どうやって分解・解体・解剖するのかということが立ちはだかります。
アポリア
この段階をどうしても超えることができないことをアポリアと言います。
さて、20世紀に人類が残してきた様々な問題が、
アポリアになり過ぎていると言ってもいいかもしれません。
第一段階を営為する情報=知識や意識は、相当に人類は蓄積してきましたが、
この三つの段階それぞれが、何の決着をなぜ希求しているのか、
これこそ大きな問題になっているということです。
私は、デザイナーとしてデザイン実務で、
問題の問題を分解・解体・解剖することをめざしています。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:01 AM

私は、「情報」という日本語が、
次のような意味合いを統合しているとしたら、
すでに曖昧な言葉に成り果てていると思っています。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

私は「情報機器」という製品アイテムを対象として
デザイン成果も生み出してきたと自負しています。
それだけに、すでに新たな「情報機器」を概念と観念で再考しなければ、
次々と進化する機器設計そのものと、
人間との関係が成立しがたいのではないだろうかと考えるようになりました。
したがって、特に、デザインを職能とする人や、
情報工学、環境情報、情報制御、医療情報などすべてが、
「情報」の意味と意義がどこまで、
日本語ゆえに曖昧であるのかを検証するべきだと提言します。
企業情報戦略も国家情報戦略も、
これからのネットワークの進化に対して、
この日本語でいいのかどうか、
あるいは、日本文化が伝統としての「曖昧さ」が本質であるとするなら、
その曖昧さの再利用を創出する時期になっていることを提案したいと思います。
そうなると、「情報」だけではなく、
再考し新たな概念と観念の言葉そのものを探し出す必要があると考え提示します。

たとえば、次のような日本語が考えられます。
以下の言葉については、この20年ほどいつも熟考対象にしてきた言葉です。

福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学

などです。
そして、こうした言葉がもっとも多用され始めている大学、その学部名や学科名、
そのコンセプトやアジェンダやスキームなどに対する
大きな懸念性と疑念性を捨て去ることができないのです。
この懸念性は私に突然、襲いかかってきたある種の不安感でした。

「デザイン」提案の大前提
なぜなら、将来・未来は、「言葉」から始まります。
さらに、わが日本には、「大物主」「事代主」によって、
物質と情報は決定づけられた伝統の文脈があるからです。
決して、この論理は宗教論でも、神がかりな論法でもありません。
真摯に「未来づくり」へ文化への新しい文脈づくり、
すなわち「デザイン」提案の大前提なのです。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:27 PM

曖昧性
ある有名情報機器メーカーがかつて、
「情報」とは、「情けに報いる」という広告コピーを出したことがありました。
なんとなく、人情味の交換という意味性を匂わせていますが、
厳密には、「情」は心の中の黒ずんだ感覚であり、
報はそのやりとりが縛り付けられていることというのが原意との解釈ができます。
それは、あまり良い意味性ではなく、
「情報」という表層的な意味の軽量観になっているということです。
したがって、「情報」というのは、四つの意味性で取り囲んだ核心に配置すべきだと考えます。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

以上のことを熟慮すると、「情報」という集約語には収束はしないのです。
むしろ、こうした「伝達性や伝導性の事項」の統合性を一言で言い切ること、
断言できる言葉が必要だったわけです。
「情報」という言葉に収束させて生まれてきた言葉、
「情報」が冠詞的となった、たとえば、情報工学や情報操作などがあります。
「情報」が結語的となった、個人情報やデザイン情報など、
すべからく、包含されている意味性が部分的であり、
なおかつ、誤解される要素に満ちていたものと判断します。
だからと言って、今さら「情報」を日常語から外すことは不可能かもしれません。
したがって、私は、情報を取り囲んでいるこの四つの意味性の総合化を諮るには、
「モノ」=物質=人工物が発明されなければならないと考えています。
この判断は、過去事例に明らかです。
「マルチメディア」という「マルチ情報」をコントロールするモノが結局は登場しなかったこと。
さらには、本来、Informationでしかなかったジャーナリズム思想は、
なんらメディア=新聞・雑誌・ラジオ・TVなどの
モノの形式から解放されなかったのです。

曖昧さからの解放と再利用
だからこそ、思想としての変革は置き去りになり、
電子書籍という形式とそのモノの登場がありました。
その発明とか登場によって、大きな驚愕とともに、
マスコミすら変質あるいは喪失すらするという不安が拡大しています。
私はあらためて「情報」という日本語に押し込められた意味性の曖昧さを指摘し、
この曖昧語からの解放、あるいはこの曖昧さの再利用が必要だと評価しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「解にある三つの手続き=問題解決の三段階」


   


     3月 11th, 2010  Posted 1:46 AM


「解」という文字も素晴らしくわかりやすい漢字です。
角があるウシに刃物ですから、
そのまま、ウシという対象物を刃物で「解体」する、
と考えていいでしょう。
解体・分解・解剖
だから「対象物」を「解体・分解・解剖」する。
これを第一段階とします。
そうすると、
今度は、「解体や分解や解剖してみたモノやコトを」、
「解釈・解説し、理解」しなければなりません。
これが第二段階です。
解釈・解説・理解
そうして、解釈することができる。解説することができる。
こうしたことは、第一段階でのモノ・コトを、
理解しないと出来ないことです。
そうして、理解しているから解釈もできる・解説もできる、
ということにつながります。
解放
この第一段階・第二段階で、やっと「解放」されるのです。
つまり、そうだったのか、「答が見つかってホッとした」。
この問題から解放された。
それこそ、「問題解決」あるいは「難問解決」からの解放です。
これが、「問題」ー「解答」です。
これまで、
「話題」ー「応答」
「課題」ー「回答」
ということから、真に、デザイン解決というのは、
「問題解決」での「デザイン解答」であるべきなのです。
問題ー解答
ProblemーSolution
Design Problem—Design Solution
これに至るのは、
「解」と言う文字に潜んでいる三段階だと私は確信しています。


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