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Posts Tagged ‘車イス’


『床面の視覚的表示はそろそろ技術進化すべきだ』


   


     11月 8th, 2014  Posted 12:00 AM

私は常に車イス移動をしているために、
舗道や室内の床面は常に見てきています。
それだけに、今では当たり前になってしまった点字ブロックは、
目の不自由な人たちにとっては不可欠ですが、
一方では、私もそうなのですが、凸凹の振動が体調や、
さらには危険さもあります。
それだけに、私たちは議論をし合い、もっと最適なデザイン解決が
最も重大なことだと、このFBでも書いてきましたが、
この記事でのフォロー者が多いことにはびっくりします。
さて、これはあるデパートの床面にある方向指示の表示です。
確かに、親切で丁寧な表示だと思いますが、
これは視覚的な健全者だけのものにすぎませんし表示内容も
それなら、もっと表示が欲しいと思わせるモノです。
今、私自身はウェアラブルPCの表示画面、情報タグなどを提示すべく、
「表示」のあり方を根本で再考しています。
とりわけ、表示はピクトグラム=絵文字で一見すれば分かること、
これは端的には、I see(=分かった)という世界観ですが、
視覚的な伝達はすでに限定されてきたことからも解放される時代です。
つまり、視覚的だけではなく、聴覚的や触覚的な表示伝達こそ、
これからの表示技術にならなければなりません。
すでに私自身は、対人関係であっても、個人的な情報タグが不可欠、
それは生まれるとすぐに人体に情報化タグが埋め込められるべきと
考えている次第です。
それは、公的な場所全てから、表示情報は視覚的だけではない、
聴覚・触覚的な表示情報の開発が当然になってきていると考えます。
こうした発言は、あの国民総背番号制 を全面容認していると
猛反対を言われそうですが、私は自分存在=アイデンティティは
絶対に必要だと考えています。
まず、自分が正直で社会的な不正をしない限り、
プライバシーの公明正大な表示。
その情報化タグデザインは必要です。

「プライバシーという人権の荒唐無稽さ」
「人権と情報のアポリア」


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『車イスデザインに取り組み、今や、電動車椅子と制度改革』


   


     10月 6th, 2014  Posted 12:00 AM

私が自分自身で車イスに取り組んだのは、今は亡きK氏からでした。
K氏は大デパートの生活用品本部長で無印良品の最初の仕掛け人。
この大デパート支援でコンピュータ制御ベッド開発もしました。
無念ながら、K氏はゴルフ場で倒れ入院、癌が見つかり急死でした。
彼は最初、自転車メーカーから名古屋の日進医療器を紹介、
私はその企業の元社長と2年契約でスタートしましたが、
まだ中小企業の事業には大きなテーマをぶつけていました。
結局、そのメーカーに「NISSIN」のロゴタイプを最後に契約切れ。
大学の後輩が鉄工所の跡継ぎだったことから、そこでチタン溶接から
アルミハニカムコア車輪で「哀しみのためのデザイン」車イスを開発。
スニーカーのような車イス「CARNA」はINAXと福井の大電産業が
スポンサーとなってもらい、それはMoMAや幾つかの美術館に
永久収蔵される私の代表作になりました。
しかし、最近では、私の体力も落ちてきたことや、
リチウム急速充電バッテリーの米国製の車イスを使用しています。
だから、次のテーマは、もっと軽量でsegway的な車イスをと、
自分のデザインテーマにしています。
電動車椅子によって、行動範囲は著しく拡大しました。
が、社会の交通制度、航空機と鉄道ではいくつものトラブルを経験。
航空機は、ようやくですが、リチウム電池は機長判断という
未だに古い慣習になっていて、いつもトラブルを経験しています。
鉄道では、新幹線と特に毎月、ふるさと福井へサンダーバード乗車、
伊丹空港や新大阪駅では顔なじみになっていますから、
ほとんど通過できますが乗船乗車のシステムは制度改革すべきです。
おそらく、身障者の人は文句も言わずにいる者と思いますから、
私は「ここがまずい」とか「海外に恥ずかしい」を連発しています。
ワイフにはいつか「刺されるよ」と言われますが、
私は言い続ける役目だと思っています。

『そろそろ電動車椅子デザインの時期=一人称デザイン』


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『最近はリチウム急速充電の電動車椅子に乗っている』


   


     9月 29th, 2014  Posted 12:00 AM

私は交通被災で車イス生活を余儀なくされました。28歳の時でした。
当時、東芝のデザイン部長(電気釜デザインで歴史のI氏)から、
「新しい車イスにはデザインが絶対必要だから君が」と、
言われましたが、絶対にやるものか、と考えていたのは事実です。
しかし、リハビリの訓練中に、これは使えないと考えてから、
結局自分の車イスは自分でやることになってしまいました。
私のデザイン活動には、こういうアイテムが多いと思っています。
自分が欲しいというよりも必要と感じたモノのデザインです。
車イス、メガネフレーム、ナイフ、カップ、そして、
今はICD=埋め込み型の除細動器などや痛くないシリンジが目標です。
さらに、障害者としての制度については、
これは自分の役割だから、先頭に立ってでも発言をしようと。
そのために嫌なタイプに思われても、厳しく提案してきました。
なんといっても、新幹線に車イス乗車が大変に困難な時代には、
陳情したことがありましたが、当時の扇千景大臣がすぐに視察され、
それから3年後にJR全線でのエレベーターが設置されました。
それでも、最近、米国の旅行者の方の車イス仕様は、京都駅側が
「反対」したとか聞くと、見逃すことはできません。
私は月1回はふるさと福井で産地活性にデザイン導入のために、
サンダーバード号を使っていますが、随分と対応がよくなりました。
しかし、電車、駅舎、エレベーターなどにはこれからも発言します。
正直、無念なことは、私デザインの車イスはMoMAにも永久収蔵作品。
しかし、体力的には電動車椅子を使用していますが、
米国のADA法=障害者への社会制度法律は日本以上に厳しいのに、
わが国の飛行機や社会的な交通機関には大間違いがあり過ぎます。
乗車客が居ないときには、こうして車イスを置かせてもらえます。
しかし、これは乗務員の方の柔軟さがあるからです。
エレベーターには平気で若者が乗り込んできます。
海外の先進国では絶対にありえないことですから、私は怒鳴ります。
まったく感情的ではありません。冷静に怒鳴ります。
東京オリンピックまでには、日本はもっと制度改善は必要です。

『パリには車イス対応が最初から叶っていた!』
『エレベーターという発明と社会倫理』
「誤解されたデザイン=デザインは意匠とともに問題解決」


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『パリには車イス対応が最初から叶っていた!』


   


     7月 24th, 2014  Posted 12:00 AM

車イスで海外に出てからは様々な対応を体験してきました。
これは、パリでも有名なホテルですが、
この車イスで、ある壁面を押すとこの小部屋がありました。
それこそ、30代後半の頃に、この対応に驚いたことがあります。
まだ、バリアフリーとかユニバーサルデザインなどが未登場でした。
ヨーロッパゆえに、自動ドアや自動昇降もゆっくりでした。
しかし、この小部屋があることは知る人ぞ知る、そんな雰囲気で、
私は、この小部屋から突然、ホテルの鏡面の壁面ドアから
飛び出すことにとても快感だったことを思い出します。
そして、このホテルに限らず、有名ブランドショップには、
ほぼこれに似た仕掛けが、壁面、柱などが必ず鏡面になっていて、
そこを開けると、このエレベーターが仕掛けられていました。
あれからもそれほど変化はしていませんが、
残念なことに、海外の有名ブランドショップにはこれだけの設備、
にもかかわらず同ブランドの国内ショップには全く無設備でした。
今なお、国内のショップにはこの展開はなされていません。
有名ホテルなどでは、従業員通路やキッチンを通り抜けます。
私には、こうしたいわゆる裏道的な抜け道が面白いのですが、
私一人なら、この裏道は面白いでしょうが、大勢になったら?
と、心配になってしまいます。
したがって、私が車イスになって、空港、飛行機、ホテル、ブチック
などなどのこうした設備や設備無く裏道は随分体験してきました。
今でこそ、成田にしても、新幹線にしても裏道は無くなりました。
しかし、私が満足している設備は不十分です。
最近は、急速充電の電動車椅子への対応が、航空機や鉄道については
全く考慮されていないと判断しています。
だから、もし私がデザイナーだと知られれば、必ず、嫌がられようが、
私は真正面化からコメントをそのお店や企業にメールします。
なぜならやがて、街中に車イス使用者が増加することは明らかです。
だから、今から準備してほしいのです。

 「車イスデザインのための文脈づくりに気づく」


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『資本主義からの逃走』
  「車イスデザインのための文脈づくりに気づく」


   


     8月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

車イスの全体と部分
ともかく、車イスはリハビリ病院で病院常備のモノから、
同じ病院でトレーニングしていた車イス使用者、
それぞれが自分専用に発注したモノをともかくよく見ました。
もし、乗れるのなら乗ってみました。
もっとも、乗っていて、軽々と走行するモノは、「車イス・バスケット競技用」だけでした。
いわゆる病院に常備してある車イスが、最悪のモノだと知りました。
大きな理由は、まずシートでの身体保持性能と走行性能がまったく体になじまいということでした。
その何が、乗り心地や走行性能などが不適なのかということになりました。
そこで、車イスと自転車、車椅子とイス様々との関係をどこまで徹底して自分が身体化、
すなわち他のアイテムで、車イスとの関係、
結局、構造を見る、触る、知る、そして自分なりに「気づいていく」ことだと分かったのです。
これは、車イスという全体、車イスの部分・部品を、
車イスと似通っているモノとの「構造」をひたすら知るということだったのだと
今では考えることができます。
正直、私がデザイナーとして経験してきたことは、
「オーディオ」と「音に関わる機器」程度の経験しか無かったのです。
それが、さあ、自転車のデザインが出来ますか?
イス、様々なイスのデザインが出来ますか?
それらを今度は車イスにまとめ直すというデザインができますか?、
ということを自問しているだけでした。もうどう考えても「無茶で無謀」なだけでした。
ちょうどその頃、取り組んでいたデザインは、
伝統工芸産地・越前打刃物で、それも「革新的な包丁」のデザインでした。
これも、初体験です。
素材・構造・文脈
一方で伝統の刃物を革新する方法を模索しつつ、
「自分のためのモノ」=「哀しみにデザイン」でした。
越前打刃物は「美しい切れ味を鍛えています」ということでした。
共通項は、全体から部分、部分から全体、その因数分解的な作業は、
「素材」であり、これはまったく変数的要素は無いという手がかりだったのです。
おそらく、打刃物と車イスがデザインの具体的対象であっても、
本来、自分の頭脳ワークは、
「素材」の「構造」を、テーマに結び付けていく「文脈づくり」でした。
以後、今日に至るまで私のデザイン手法は、
いつも「素材」・「構造」・「文脈」に集約させることに繋がっていると判断しています。


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『資本主義からの逃走』
  「車イスが器械だから、トレーニングから始まった」


   


     8月 22nd, 2010  Posted 12:07 AM

呼吸困難
「君は車イスで生活」という宣言から、
早速、私はまだ上半身をギブスで固められていたのですが、
トレーニングが開始されました。
両手とも麻痺していて全く動きませんでした。
ところが付き添い=ヘルパーさんが、元・九州の労災病院経験者だったのです。
それは、落盤事故で車イスになった人たちとの経験がありました。
毎日、少しづつ私に車イス生活になっていく心の準備などを話してもらいました。
ほとんど、納得できないままに聞き流していたのですが、
本当に車イスに乗るまでは彼女の助言を思い出さなければいけなかったのです。
とりあえず、2kの砂袋が両手に結わえられたのです。
まったくそれが動かすことができませんでした。
ギブスの中は、発熱で毎日汗びっしょり、汗が乾くと痒みです。
一度、そのギブスを切断し、また新しいギブスに変わる時でした。
俯せから背中のギブスが外されたとき、
何人かの看護師さんが、「キャー!!」と叫んだのです。
私は、鏡で背中が見たいと言いました。
「ダメダメ」でしたが、「見せろ、見せろ」と言い寄りました。
手鏡二枚で、私の前に、真っ赤の血と緑色の膿=緑膿菌が背中いっぱいに広がっていて、
その見たこともない光景で、気絶しました。
毎日、ともかく1.5kの砂袋が結わえられましたが、
両手は動かずに持ち上げることもできませんでした。
そして、ギブスがプラスチックのまるで鎧になって数日後、私は呼吸困難になったのです。
肋骨6本折っていました。それでその1本が肺に突き刺さったままだったのです。
右胸がパンパンに腫れ上がって呼吸困難になったのです。
早速500ccだったと思いますが、その注射器で胸から水が抜かれることになりました。
私は見詰めていたい、と申し出ました。私はこれからの現実は直視しようと決心していました。
ドクターが私をまたいで、もうもう一人のドクターが両肩を押さえました。
正直とても怖かったですが、平気さを装っていました。
しかし、その注射器は針先のガラスがすぐに折れ、新しい注射器もまた折れ、
250ccの小さな注射器で何度も何度も突き刺されながら水が抜かれました。
その度に咳き込みつつ息がつながりませんでした。
そして、その水の色はまるでペプシコーラグレープの色でした。
つい最近はグレープ味のペプシが飲めるようになりました。
1.5kg砂袋のトレーニング
ちょうど、見舞いに来てくれていた父に右手を握ってもらいながら、
〈呼吸ができない、このまま逝くのか〉とその風景を見詰めました。
父は「握り返せ」と言いましたが、右手にはほとんど意志が伝わらず、
父はドクターに「手は動くのだろうか?」と質問しました。
ドクターは、「彼の両手はやがては動くはずですが・・・」と答えました。
ともかく、その救急病院時代は、1.5kの砂袋を持ち上げることができませんでした。
しかし、この連日の朝夕2回のトレーニング、
このたった2回持ち上げることもできないけれど、
それが意味を持っていたことを転院して知ることになりました。
器械だから、「自力」が必要だと実体験するのです。


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『資本主義からの逃走』
  「自転車は器械、それは車イスが器械だから・・・」


   


     8月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

交通被災
私にとって車イスが必要になったのは28歳からでした。
タクシーに乗っていて、泥酔ドライバーに追突されたからでした。
自分で、自分の車イスをデザインすることになった経緯を話します。

私は、四つ角で停止しているタクシーに乗車していました。
相模原から立川方面への方向を指示しているとき、
轟音とともにタクシーがスローモーションで回転し始めて、
信号灯が目の前で同様に回り出しました。
私は隣に居た恋人を抱え込んでいました。
咄嗟に、これは爆発すると思った瞬間、タクシードライバーが天井まで飛び跳ねて、
これもゆっくりと落ちました。
私は、暗闇でなんだかずぶ濡れになっている様でした。きっと血まみれなのではと思ったのです。
その激突で、大変な汗をかいていたそうです。
それから、周囲を何人かの人が取り囲んで、タクシーを壊しながら、
彼女が出されて、私を引きずる出そうとしてくれたとき、激痛が走りました。
彼女だけはまたく無傷でした。
私は、シートに横たわって、ともかく、出たくない意思表示をし、
気がつくと、救急車から病院のベッドに寝かされながら、革のコートに鋏が入っていました。
彼女が泣き叫んでいました。
・・・そんなに絶叫するなよ・・・大したことではない、と思っていました。
ともかく、チーフ(デザインチームの上司)が来るまで、
気を失ってはいけないと言い聞かせていました。
そして、チーフの顔を見て気絶しました。

それから、気づいた時には、2日後、手術が終わっていたのです。
父が立っていました。
丸1日体力があれば手術ということだったらしいのです。
まだ、両手も動かず、自分の体がどこにあるのかわからぬまま、
生きているのか、死んでしまっているのか、
発熱と嘔吐の繰り返しの連続、朝も昼も夜もわからない日が永遠と思えるほどでした。
歩けない体だから
「君は、この病院を出るときはもう歩けない」と宣告されるまでは、
自分の体に何が起こっているのかはわからない日々、約1ヶ月後だったようです。
ドクター二人が、
「君は歩けない体なんだ」と繰り返されましたけれど、
「それで?」というほど、きわめて冷静冷徹に受け止めていました。
・・・車イス生活・・・だから・・・?
それなら、車椅子は自分でデザインすることになるのか・・・、
これは面倒なことになったという思いでした。
自転車のこと徹底的に知らないといけないなー、という具合でした。
車イスは機械ではないから「器械のデザイン」になるんだという直感だったのです。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションそのままデザイン、着こなしのDandyism*」


   


     4月 14th, 2010  Posted 2:13 AM

Fashion
Designを語るとき、ファッションとの関係を話します。
それは、「デザイン」という言葉、
この言葉は「洋装デザイン」として戦後定着したからです。
だから、デザイン・ファッション・流行が一直線上にある、
そのことは至極、一般的な認識であり、常識だと思っています。
そこで私は、この普遍的なデザインファッションについて、
それは現代の大げさに言えば、
資本主義との密接さを語るために記述しておきます。
私のファッション感覚です。
男がファッションを意識し始めるのは、私は学生服からでした。
高校時代には「仕立て」てもらっていました。
中学からの憧れでしたから、
母はその想いをすぐに聞き入れてくれました。
高校指定の規則がありましたが、そのままですが、
校章入りの金ボタンでも、その下はファスナーで、
最上級の布地でした。いわゆる礼服と同等の布地でした。
大学時代には、なるべくスーツとネクタイで登校する友人もいました。
だからジーンズよりも、スーツ姿をなるべきいっぱい見てきました。
企業に就職したら、粋がって、ドレスシャツや、
とてもサラリーマンとは見られないことをしていたようです。

ふるさとに帰ったときは、
如何にデザイナーっぽく見られないか、ということで、
ワイシャツは白、地味なネクタイ、髪も短めを意識しました。
それこそ銀行員のように見られることを戦略と考えました。
二つの理由がありました。
まず、デザイナーという職業は
服装からも「遊び人風」にみられます。
もう一つは、車イスです。
車イスでカジュアルなファッションは、
働いている印象が与えられないとか、
威厳ある姿には見えないのです。
やはり、人は「車イス=障害者=プロとは見ない」
という感覚があります。
私は、イタリア製のダブルで白ワイシャツと、
ブランドものの地味なネクタイ、
この印象が与えるファッションデザインをベクトル化しました。
したがって、ある意味ではデザイン界とか建築界では、
スーツやネクタイを、「自由業的な印象」という先入観で、
ネクタイをしないとか、スーツよりジーンズが、
まさしくプロっぽい、そんなムードがあるようです。
私は、かえって、この選択は間違っていると思います。
Dandyism
最高級と言われるスーツやブランドモノには、
それなりの性能性がほぼ完璧です。だから機能性があります。
それはジーンズの機能性を超えています。
おそらくすべてのブランドのネクタイを試みてきていて、
その「モノ性能」は評価できます。
まさしく、それは、私の万年筆、腕時計、カメラ、自動車への
趣味感と一致しています。ダンディズム思想があります。
ワイシャツもスーツも同じです。
私は、ファッション性としての一面である
「見てくれ・見栄・外見」の効能性、
それが読み取れないデザイナーセンスは疑っています。
この話は、連続させないと、
デザイン論=資本主義論にならないでしょう。


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12月23日Staff Blog


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:40 PM

12月23日

JAF(JAPAN AUTOMOBILE
FEDERATION)入会30年になる
BOSS(川崎和男)。
愛車は、セダンタイプSも、
2シータータイプSLも、
BOSS仕様に改造されています。

左ハンドルでないと、
運転手側が歩道側にならないので、
車イスへの移動スペースが
確保されにくいのです。

これまでのBOSS愛車遍歴は、
どこかでご紹介したいくらいです。
BOSSが29歳、
赤坂の事務所をスタートされる時に、
運転の練習を
東京プリンスの駐車場でしたそうです。
愛車第1号は、
シボレー・モンザだそうです。
091223key


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