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Posts Tagged ‘造形思考’


『デザインでデザイナーが美しさをどう創るか』


   


     10月 11th, 2017  Posted 12:00 AM




デザイナーにとって、私は最も難しい質問は「美しい」ってどういうこと?
この質問に一言で、体系的に、経験的に、学術的になど、
応答・回答・解答出来るかは本当に難しいと思います。
そして「美しさ」は美学という学術的な領域がその答を出しています。
それは音楽と美術が中核だったことは間違いありません。
私自身、「美しいってどういうこと?」という質問は、
福井伝統工芸産地、越前和紙に創ったオータキペーパーランドからでした。
思わず身構えましたしどう答えるべきか随分と逡巡した思い出があります。
私はまず、先天的に答えることができますが、
これをあたかも美学的に体系までは困難です。
そして後天的には、知識と経験で知見化することが可能です。
まず、美しいというのは景観での気分や気持ちよさでの一言です。
本当に気持ちいいほど空が青いとか、
夕焼けが綺麗という単純な景色感覚への評価です。
空・海・山の景観や景色が挙げられます。
これが先天的での景観評価が素直さでの感覚=センスだと思っています。
かって名古屋大学での講義で、自分が美しいものを上げてレポートを、
こんなカリキュラムを数年やったことがあります。
工学部相手でした。そうしたらなんと三分の一の学生が数学の美しさを
徹底的に分解してきたレポートには感動しました。
私はデザイナーとして、体系的には、二つあります。
その一つはパウル・クレーの「造形思考」でした。
もう一つはカントの代表作である「純粋理性批判」での
真善美と感性・悟性・理性での美の解釈です。
東芝時代はモーツアルトのピアノ協奏曲のスコアとその旋律再生音。
このマッチング性に美しさがありました。
登山懸命だった大学時代は山岳と空・夜空が私の美しさの根源でした。
今は自宅から望める夕方の夕闇の変化を眺めて、
自分デザインの美しさを綺麗さからも求め直します。
美術的や音楽的を離れた時には、デザインでの美しさは、
今ではかなりの制約が乗りかかってきています。
たとえば、PL法違反などは、現代的には当然であり、
重量なども、万一、落ちてきたら危険は美しさを語る以前の問題です。
デザインでの美しさは追い求める義務がデザイナーには不可分です。


* 『家具デザインの「家具」定義を変えるべきだ』
* 「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
* 「若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認」
* 『ポケットブックになる「造形思考」が出版』
* 『月明かりの前の沈まない大阪、それは日本』


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『ポケットブックになる「造形思考」が出版』


   


     12月 26th, 2016  Posted 12:00 AM



新人のドクターがよく診察着のポケットには、
薬剤のポケットブックがあります。
デザイナーとして、ポケットブックに相応しい書籍を探していました。
そうしたら、なんとパウル・クレーの「造形思考」が文庫本として出版。
本来の邦訳「造形思考」は最早入手は高額で困難ですから、
この出版を私は高く評価しています。
母校で非常勤講師をしているときに、ある優秀な学生から、
デザインには基礎的な書籍が無いから、
もし、持っていて完読するのは?、と
このような質問を受けたことがあります。
私はすぐに「造形思考」上下巻、「無限の造形」、
いづれもパウル・クレーを推薦したことがあります。
それ以来は、大学人としてこの書籍は定本として推薦してきました。
しかし、これらの書籍は書棚用でしたが、この文庫本は持ち歩けます。
「パウル・クレー?」、こういう質問がデザイン教育界は勿論、
デザイン教育者でも完読し、それを適用させているプロは本当に減少です。
それこそ、最近のグラフィックなどからwebsite表現を観て、
即座に「造形思考」でのある種の表現定理=これは私勝手の定理ですが、
円形・四角形・三角形、リズム、カオスでの秩序感性などは
この定本ですぐに確認ができます。
「この下手くそな造形だな・・・!」と、私が非難するときには、
その下敷きには「造形思考」での造形定理的な正否判断があります。
無論、「なぜこれが?」という彼の言説もありますが、
基本的にはほとんどは納得しています。
ともかく、定本が文庫本になっていることは共有したいと考えています。



* 『手稿は宝物である』
* 『バイブルとテキストでは著作権と商標権は闘えぬ』
* 『「造形思考」はイメージの表現=造形への音楽的理論がある』
* *「造形思考も数理思考も、『手』に集約します」*
* 『正しいデザイン手法としてのオマージュを熟知せよ』


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『バイブルとテキストでは著作権と商標権は闘えぬ』


   


     8月 6th, 2015  Posted 12:00 AM



「点・線・面」はデザイナーのバイブルです。
「造形思考」はテキストです。
「点は限りなく正方形になる」と記したカンデンスキーは、
現代の液晶ピクセルを予想していたと私は確信しています。
線と曲線の関係性は、カオスに響く音楽論で、
パウルクレーは、デザイナーの教科書にしてくれました。
幅ある縦線と円形には、「ヘアーライン」という視覚補正が必要です。
オリンピックのエンブレム、そのデザインは、
盗用という極めて失礼千万な批判あるいは非難が取り憑いていて、
デザインはその平面図形の比較で「似ている、似ていない」を喧噪。
そして盗用というのは何事でしょうか。
ベルギーの劇場マークは、デザインの「応答」作品にすぎません。
東京オリンピックのエンブレムデザインは、
デザイナーの言説から「回答」作品ですから、
盗用というのは職能への大侮辱です。
釈明という失敬さをマスコミは平気で乱用していることは許せません。
ただし、私はプロとして、「ヘアーライン補正」という技能を
それぞれに解釈と解説と批評を与えてしまえば、
ベルギーの単なる劇場名と場所名の組み合わせは、
確かに、ベルヌ条約の無方式主義の著作権で訴訟をしてくる事、
それは補償金目当てでしょうか。
エンブレムデザインをマドリッド協定議定書での
商標権と対決させるのではデザインを応答作品でしかない
ベルギーデザインの幼稚さを保護しただけに過ぎません。
比して、
わが国の回答作品を商標権で護ることには正直大きな不利があります。
著作権と商標権での対立は
八百屋と魚屋のどっちがおいしいかの議論でしかないからです。
が、応答作品と回答作品では
デザインの職能倫理性は日本に正当性があります。
無念なことは、釈明会見というマスコミの姿勢はデザイナー虐めです。
「盗作」とはもっと別次元にあることは確かですが、
日本のデザイナーの正当性を私たちは護り抜くべきだと、
私は思っていますし、ベルギーの言いがかりなど無視すべきです。
そして、日本もベルギーも、バイブルそしてテキストも勉強不足と
「ヘアーライン補正」訓練不足があることは否めません。
本来、デザインは解答作品を審査委員会のたとえギルド性があっても
日本人デザイナーを著作権から護りぬくべきでしょう。
なぜなら、世界中がローカルなマークを知ったと言う話題でしかない、
つまりベルギーの応答作品が告知広報しただけのことです。
この応答と回答の対立でオリンピックは遠くなっているのは事実です。


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『手稿は宝物である』


   


     12月 7th, 2014  Posted 12:00 AM



私は教員という役目として、学生たちには、友人をつくることを
ことさら薦めて主張してきました。
ただし、友人というのは、今は亡き人たちに友人をつくることです。
彼ら、彼女らは、書籍の中に生きていますから、
本を読んで一方的に必死に友情をもてるぐらいになることを薦めます。
まして、その友人達の手稿があればそれは最高の友情だと考えます。
私の宝物は本物ではありませんが、ダヴィンチとクレーの手稿、
この二つは最高の物であり、おそらく再版されない限り、
美術館での特別展以外は見ることができません。
ダヴィンチはデッサン手稿でとても大きいのですが、
パウル・クレーの「造形理論ノート」は、彼の講義準備ノートです。
手稿ゆえに言葉は独語で書かれていますが、
出版物(今はもう手に入らない)では、ノートと翻訳があり、
ノートにはいわゆる図形、形態の彼なりの原則解釈があります。
おそらく、パウル・クレーほど厳密に図形、その造形解釈、
その論理化を熟考し言葉に置き換えて残してくれた人物はいません。
したがって、よく質問をしてくる学生には、
パウル・クレーと友情を持つことを吹聴してきたものです。
その実、今でも私がすべてを理解しているわけではありませんが、
時に、この造形表現はなにかおかしいと直感すると、
その説明は、彼の造形思考ノートで正解を確認することができます。
たとえば、単純なこと、矢印図形一つでも、なぜ、その平面性や
力学的な特性は、彼の言葉、文章で理解可能になります。
日本ではほとんどバウハウスの教育論が無視されていますが、
文理学際化の源、その教育原理はバウハウスにあります。
「教育原理」という教員資格単位がありましたが、
私は4年間この授業を受けましたが、単位を取らずなので、
結局、中高の美術科教員資格は持てませんでした。
理由は明快です。パウル・クレーの言説論無き「教育原理」などは、
大間違いだと今も思っているからです。
造形理論ノートには、造形課題とその教育理由が書かれています。


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『「造形思考」はイメージの表現=造形への音楽的理論がある』


   


     12月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM



デザインを職能にするには、線を学ばなければなりませんでした。
デザインストロークを美大では徹底的に手で覚えさせられました。
それは手が思考するという訓練だということを教わったのです。
その意味がわかってから、デザインを教える基本の論理は、
パウル・クレーが、壮大な記述を残してくれていました。
私は、オーディオからデザイナーになることができた幸運があり、
なぜ、プラトンが形態と音階を明らかにしたのだろう?とか、
いや、バウハウスで教官だったパウル・クレーは、
さらに音楽?で造形を追い求めるとか、
その分節理論で形態を求めていたことに惹かれました。
したがって、私の美大卒業から30年で、
「プラトンのオルゴール展」が、金沢21世紀美術館に収蔵されました。
パウル・クレーの日記から学んだことが膨大にあり、そのために、
彼へのオマージュを造形化し作品にすることができました。
彼から学んだことは、デザイン=造形=見えることから、
今は、如何にデザインで造形から解放されるべきかに至っています。
それこそ、色彩・音楽・音響・造形は根底で、
そのイメージが、混沌とした闇から、見えないことを、
線描という方法論が、「造形思考」と「無限の造形」にありました。
つまり、美大がデザイナー養成をここまでで停止したことが、
今なお温存されていることに、私は次世紀デザインへの反発があり、
造形と機能に押し込められていることへの対決でした。
ちょうど、私は30代を迎えるときに「記号論」に出逢い、
私の脱構築は、デザインされたから視覚化されただけでない、
まさしく制度デザインにまで、来ることができたことでした。
プラトンは、善悪に迷ったなら、美で決定すべきと言いました。
それは、音階のあり方を見いだし、さらに、音楽の分節化を
パウル・クレーは、造形の基礎にしてくれました。
彼の線描・デッサンだけを受け継いでいる現代のデザイン系大学に、
造形思考を講義できる教員はいないのかもしれません。
だから、デザイン職能が劣化していると指摘しておきます。

「手を頭脳化するトレーニング=デザインストローク」

『プラトンのオルゴール』


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『「形態学序説」からのデザイン原論思考が必要』


   


     12月 1st, 2014  Posted 12:00 AM



ヘシオドス(ヘーシオドス)の「神統記」は、
西洋の知の起源の一つ、「ギリシア神話」や「ローマ神話」など
これらの源になっています。
そして、デザイン原論の代表としては、
パウル・クレーの「造形思考」のカオス論や、ゲーテの「色彩論」
そして、「形態学序説」Morphologyにもその体系は繫がっています。
まず、人間が最も不明としていた、カオス=混沌と死は、
タナトス=死の神の設定であり、その兄弟には眠り=ソムナス。
そして、ゲーテはソムナスの子どもであるモルフェー=白日夢を
形態学の入り口に文字通りモルフォロジーと名付けています。
タナトスやソムナスは西洋絵画にも描かれてきました。
そして白日夢であるモルフェーは、今も、薬の名前に残っています。
モルヒネは、まさにうとうとと眠りと夢見心地を誘発する薬名です。
では、果たして白日夢という朦朧とした状況ではなくて、
妄想から幻想という想像力=イメージの世界観を明確にする命題は
生物学的に、まず、形に注意しそれは器官や構造にまで至ります。
形態発生学のなぜ、「その形に至るのか」という論理は、
生物学・言語学やがては都市形態学や数理形態学にまで拡張します。
したがって、デザインにとっての形態学はまだまだその論理は
残念ながら読み解く才能が不足していることは認めざるをえません。
パウル・クレーが、イメージはカオスから生まれてくることから、
根本的には芸術作品はすべからく「見えるように表現する」という、
この結論に至ります。
だから、あえて私は、デザインが造形から解放されるためには、
見えている形態から、その構造や機能、さらにはその発生の逆読みが
絶対に必要だと考えているからです。
多分、そろそろ、自分の職能であるデザインのその原論、原則論を
語るには、モルフェーの白日夢に浮かんでくる造形発想が必要です。
つまり、デザインで造形をイメージする根本には死と眠りと白日夢、
これらから見えるようにしていく表現が、
見えない制度までをデザイン発生させる思考論理を求めています。

「Morpheusの白日夢から」


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『資本主義からの逃走』
   「トポロジーの情報表現として3D-CADへ・4」


   


     9月 27th, 2010  Posted 12:00 AM

3D-CADでのトポロジカルな表現
私はMac登場とともに、コンピューター上の図面表現に注目しました。
まだ初期段階では2D-CADがわずかでした。
機械関係と建築関係に向けられたアプリケーションソフトだけでした。
私は、当時一番Mac向けで優れていた「Clalis CAD Perfect Manual」を出版しました。
ところが、トロントALIAS本社では、すでにCGとともに、
3D-CADとそのCGが「自動車デザイン」と「映画づくり」に向けて開発中でした。
しかも同時に、光造形システム・ラピッドプロトタイピングの開発を目の当たりにしました。
「これからのインダストリアルデザイン手法が変わる」と直感しました。
Bスプラインによる描画方式がプログラミングの基本になり、
すでに立体では歯車が出来上がっていました。
彼らも、問題は、「幾何学での描画をトポロジー描画形態が可能だろうか」ということでした。
基本は、カンデンスキー1959年のバウハウス教科書「点・線・面」であり、
それより100年前のいわゆる位相幾何学に遡及し、
コンピューターの登場で変更を求められることになったのです。
なおかつ、コンピューターの登場で、TopologyもTopology Space論へと向かい始めたのです。
トポロジー的CAD表現の立体化
そして、3D-CADでトポロジカルな描画ができるか、という課題が出てきましたが、
無論、発想の転換をしない限り可能なわけはありません。
今なお、トポロジー学者を自称する人にはこのCAD思索が全く欠落しています。
そこで、トポロジーという数学的情報であるイラストレーション造形に向かっていきました。
私は、I-deas・CATIA・Pro/ENGINEERで、
すでに海外で発表されていた「メビウスリング的な形態」、
さらに「組み合わされたクラインボトル的な形態」のEWS設計を試みました。ほとんどが失敗。
なんとかI-deasでそれらしき形態を光造形で「立体化」することができました。
これは友人達がNew Yorkで発表会をし、
すぐに、フィラデルフィア大学、それもデザイン系と医学系で発表ができました。
ところがUnigraphicsが登場し、「メビウスリング的形態」はいきなり画面上で出来上がったのです。
ここから、「ドッグボーン」・「ダンスハット」・「プリズマティックリング」などを
造形化することができるようになったことでした。
3D-CADは、Topology Space論での思考領域を「造形思考」に加えてくれたことでした。
この「造形思考」は、以後、私のデザイン対象を拡大してくれました。
大きな課題は、トポロジーとしての情報はあまりにも古典的な数学領域に閉鎖されていて、
それこそ、Surjeでの「Topology」すら、知られていなかったという現実でした。


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『資本主義からの逃走』
      「情報のトポロジーへ・1」  


   


     9月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

トポロジーからの造形発想
「トポロジー」という言葉は、本来の数学術語から、
レトリックとして、意味の拡張があります。
それは、現代社会・現代時代、情報化の根幹に関わっていると私は判断しています。
高校時代に出会った言葉にいまなおとらわれている次第です。
私が大学人の道に入っていっていくとき、恩師と相談した要の用語でした。
いくつかの理由がありますが、代表的には次のようなきっかけでした。
■ プリンストン大とALIAS社で開発されていた光造形システムに出会ったこと
■ 光造形で点・線・面の数学的定義が特に造形思考が大転換という直感・これは現実になりました。
■ デザインもトポロジーのように意味の拡大や拡張していくという平行例示となる。
■これこそ、社会的学識・知識・意識への学際的な社会的職能性を変革すること、これも現実化。
などなどです。以上の例示は私だけのデザイン作品にとどまっていません。
受け止められる才能や資質、特にセンスは限定されています。
大学人になることを後押ししていただいた
哲学者中村雄二郎先生に示唆されたこととが根本にあります。
それは、学際化を臨床的、つまり学際性を最も端的に表すデザインこそ、
情報とトポロジーの接合部があるかもしれない、ということでした。
具体的に見つかったのは、「人工臓器・原子力エネルギー・ロボット」であり、
現在はその統合的・根源的なコンピューターとロボティックス医療機器です。
情報とトポロジーの学際思考の具現化
そして、不思議なことは、「十牛図」に出会いました。
これが今私に、「情報とトポロジー」を結び付けようとしてくれています。
昨日、舞踊家・西川千麗さんと京都大学名誉教授・上田閑照先生と対談することができました。
対談後に、「情報とトポロジー」は、さらに私の中で強力に結びつきました。
私のトポロジー思考のデザイン化は、
海外でいわば応用というより「オーガニック空間論」とかで、模倣されています。
これはあまりに大きな誤解があるために、米仏中心に活動を開始しています。
これは情報とトポロジーが遮断されたデザイナー思考に偏向し過ぎているからでしょう。
私は、格別に「情報としてのトポロジー」と「トポロジーとしての情報」、
この四句分別は昨夜、上田先生に講演控え室で個人教授していただきました。
なぜ、「色即是空」があり、「空即是色」、
さらには「身心脱落」があり「脱落身心」があるかという、現成公案手法でした。
私は、「トポロジー」が歴史的には、
無論、数学的発想だったことが形態に連合していたことに最も興味があります。
しかし以後、社会学などにこの術語の引用や転用が起こり、意味が拡張しました。
この拡張化に心惹かれることはなく、いわば数学的な発想が形態化していたことです。
数学がコンピューター運用、つまり情報学での数学解析が再構造化されてきたコンテクストから、
私は、光造形システムで、「トポロジーのような形態」造形を試みてきました。
これは明らかに、これからの「情報」が「トポロジー」なる数学思考そのものを、
学際的に、さらに進化を形態的、形態論に新たな核心をする証左になるものと私は断言できます。
しかも、この「情報とトポロジー」は具現化されていくことが次第に明確になってきました。
象徴的には、「エネルギー思考」や「情報伝達手法」の計画がすでに手元に届いています。


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『資本主義からの逃走』
 「Morpheusの白日夢から」


   


     6月 7th, 2010  Posted 12:01 AM

Morphe
昨日は、うろ覚えだったMorphesは間違いでした。
ひたすら、このブログは毎日の思いつきや思い込みをメモっていますので、
くれぐれもご海容ください。
そこで、
Morpheus; Morpheという人物の存在性に、
私の「幻視」あるいは「幻想」を重ねます。
むしろ、彼の存在、その発想を共有したいと考えるからです。
これは幻想です。しかし、妄想ではありません。
モルヒネ
モルヒネ」という麻薬があります。
まさに、その薬名の由来に関わっている人物です。
人物というより、登場人物と言っておくのが正しいでしょう。
ヘシオドスの「神統記」にはギリシア神話からの話があります。
Thanatos=タナトスに纏わる話です。
タナトスは「死」を司る人物(神)となっています。
この兄弟にSomnus=ソムヌス(Hypnos=ヒュプノス)がいます。
ソムヌスは「眠り」を司る人物(神)です。
そしてこの息子に、まさしく「眠り」の中でも、
白日夢
「白日夢」を担当?している息子がいるわけです。
この人物が、Morpheus; Morpheです。
「白日夢」だけに「日中もうつらうつらしている」のです。
この目覚めてもいない、と言って眠ったもいない状況から、
麻薬;モルヒネという呼称が生まれました。
さて、このタナトス、ソムヌス、モルペウスから、
ある幻想的な発想を引き出したのがゲーテでした。
1817年、彼は自費出版した書物というよりパンフレットがありました。
形態学序説
「Morphology Introduction」=「形態学序説」です。
このいわば幻想、あるいは、カオス的な状況から「形態」が生まれるという話は、
パウル・クレーの「造形思考」にまで繋がっているのではないかというのが、
私なりの解釈です。
私は、本来、「形態学序説」こそ、デザイン造形学の定本と考えてきました。
ところが、「形態学序説」は、医学領域で「形態発生学」、
あるいは「形態発生論」に伝統的な連続性を蓄積しています。
これは、「なぜ、内臓の形態が誕生してからある形態に至るのか」ということです。
私はむしろ、デザイン造形すなわち、
「形態造形」はゲーテの発想に大きなヒントがあると思い、
そんな発想論=白日夢的な中でぼんやりと、
観念的、概念的に浮かび上がってくる「形態」を当てはめたいと考えてきました。
前置きが長くなりましたが、
「資本主義」という「形態」から逃走して「どんな次形態」に入り込むべきなのかが、
このブログの考察メモ結果です。
「形態学序説」は「形態学」=Morphologyを提言してくれたのです。
私はあくまでもデザイナーという立場から、
Morphologyという背景を、あたかもMorpheusのように、
幻想から、確実な発想の持ち込みたいと考えている次第です。
私は、このブログの次の下敷きに「形態学序説」を置きます。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考も数理思考も、『手』に集約します」*


   


     1月 17th, 2010  Posted 1:00 AM

手と空
いつもスケッチと数式を描き書いています。
「手」に造形・数理の思考が採集・集中・集約します。
「手」が動き出すまでには、
「手」はほとんど運動神経が支配している所ですから、
頭脳は「空」=emptinessになっています。
だから、思考が蠢いているとは感じられません。
ところが訓練した「手」には「思考脳」が発生します。
これが不思議なことですが、私は確信しています。
デザイナーの修練・資質・才能・意志・存在感、
それらを統合化しなければ、
この不思議さを身体化できません。
これはほとんどスポーツや楽器演奏とも同一だと
私は想ってきました。
手の訓練
美大生時代は、徹底的に「手」の訓練をしました。
泣くほど訓練をしてきたと思います。
デザイナーである現在も「手」をひたすら精進です。
今、教育者として「手」=デッサンを重視しています。
もう、「手」で一本のラインを見ただけで、
学生や若いデザイナーの「力」=能力が見えます。
私自身のデッサン・スケッチには健康状態も出ます。
もう一つは「手」は女性のごとく「手入れ」必死です。
ハンドクリーム
手の洗い方からハンドクリームについても、
相当に試行錯誤してきました。
特にハンドクリームについては一家言持ってます。
「手」が、
実は「脳科学」が集約しているとさえ思っています。
「思考」は「試行運動」で「手先」から表現されます。
私は、思考が行き詰まるといつもじーっと、
自分の「手」を見つめることにしています。
ちなみに、ハンドクリーム評論家にもなりたいです。


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