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Posts Tagged ‘階段’


『日本での特殊車両、その代表を見ると・・・』


   


     8月 6th, 2017  Posted 12:00 AM



日本の自動車産業が危なくなっています。
その理由はいずれ書こうと思っています。
自動車といえば、ガソリン車でT型フォードがいの一番に語られますが、
デザイナーのプロとしては、蒸気機関の砲台運搬車は1760年代?には
すでにガソリン車になるという予感があったと記憶しています(怪しい?)。
ともかく、自動車でも、そのタイヤなのかキャタピラなのかは
未だにその結論が出ていませんが、
先般日本にはたった一台しか無いという「レッドサラマンダー」をみました。
岡崎市の消防自動車ですが、この特殊車両での
九州天災復興で活躍を見て感動しました。
そうなると、キャタピラでの陸上自衛隊の戦車は、
タイヤで時速100Km/hが断然いいのではないだろうかと判断しました。
キャタピラ戦車は戦闘用であり、他国侵略は絶対にしない戦闘ではなくて、
高速道路上でもミサイル発射が可能な
「16式機動戦闘車」がわが国での防衛では必要なのではと思いました。
私が特殊車両を追いかけているのは自分の電動車椅子設計と、
除染専用の特殊車両デザインを追いかけているからです。
キャタピラについては自分のデザイン作品集で
詳細なことを書いた覚えがあります。
電動車椅子でキャタピラの車椅子は階段を上下乗降車が、
ドイツのデザイン学生作品で見て、あれよりもと考えています。
結局、自動車の時代はもはや終焉の時期が到来しました。
今、超軽量な電動車椅子と除染専用特殊車両デザインを常に考えています。
おそらく、これが私のデザイン人生では最期のテーマだと思っています。



* 『デザイン主導のフライング・カー時代がせまっている』
* 『「哀しみにデザイン」そろそろ車イスデザインを書こう』
* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』
* 「お月様が見ているよ・・・性善説の人にもどるために」
* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』


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『バリアフリー・身障者対応は老人医療に連鎖』


   


     7月 23rd, 2017  Posted 12:00 AM



車椅子生活になった40年前、そして30年前も
私は銀座で、あるいは空港でもほとんど車椅子に乗った人とは
出会ったことがありません。
ところが最近では、一日に3〜10名には出会います。
すでに私は電動車椅子に乗っています。
絶対に電動は使わないと言っていたことがあります。
しかし、もはや体型にも変化があり、
電動なら日本では時速6kmですから、相当に早いのです。
しかし右上のように段差3cm程度の傾斜があれば無理です。
一応、段差無しという右下のユニット程度も無理です。
まして左では完全に行動は不可能です。
日本はいわゆるバリアフリーがサンクションにはなっていますが、
点字ブロックも駐車場でも車椅子OKはルールありといえども無理一杯です。
それこそ高級レストランでは、階段があっても若い男が手を貸しますとか、
私は拒むことにしています。
それならスタッフが手慣れた移動可能。
万一、落下したらどうなる?なんです。
電動では周囲が手助けしても、現在は絶対に無理です。
手動なら車椅子をまず高さを確保、
そして使用者を二名〜四名が抱き上げるという方法です。
2020年パラリンピックで、車椅子選手や身障者対応へは
相当の、あの「身障者おもてなし」?
嘘でしょ!というのが、現在の私の心情です。
大阪大学はパラリンピック支援大学になっています。
だから伝わる人には「言いたいこと」一杯あります。
身障者対応はまさに「老人医療」と結びついているのです。
75歳になれば、必ず車椅子使用者は70%なのです。


* 『通称・点字ブロックのデザイン間違い!』
* 「デザインは皆無だ!・・・誤りのデザイン」
* 「石畳の街、その文明と文化」
* 「ブリューゲルが描いた盲目の人たち」
* 『電動車イスの効能的制度設計からの性能・機能デザイン』


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『思い出の38豪雪と56豪雪、雪と対決してきた我が人生』


   


     1月 12th, 2017  Posted 12:00 AM



車椅子は階段を昇降することが可能、雪道でも走行が可能。
これが私のデザイン希望になっています。
今冬の日本列島が豪雪と聞くと、自分には大きな思い出があります。
なにしろ北陸生まれゆえに雪には慣れ親しんだものですが、
忘れられないのは38豪雪と56豪雪です。
38豪雪時には中学校は休校の連続でしたが、私は商店街を駆け抜けて、
ほとんどスキーに出かけていました。
それこそ、電柱の先端に腰掛けるほどの大雪でした。
父の命令で庭の雪かきをし地面に穴を掘りトイレの汚物を捨てたものでした。
38豪雪時にはともかく出かけるにはスキーを履いていました。
56豪雪は、ちょうど私は東京から福井に戻った時でした。
国会議事堂の上の空は真っ青、ところが東名高速から北陸をみると、
曇天の空、北陸自動車道に入ると路面には激しく降雪が始まり、
(あぁ、あの曇天の下で育ったのだから、車椅子生活でもなんとかなる)
こんなことを考えて都落ちする自分を励ましていたことを思い出します。
私はまだ新品のカマロ・ベルリネッタで、福井市に入っても
雪面には十分な馬力があったのですが、自宅近くでは、近所の方々が、
みんな出そろって道路の雪かきをして待っていてもらいました。
自宅はまだ建設中だけど小学生の妹は私をはしゃいで待っていました。
その深夜から56豪雪が始まりました。
私の記憶には、38豪雪時にはほとんどスキーの毎日を思いおこしていました。
豪雪となると、38豪雪と56豪雪のそれぞれに
自分が歩いていた頃と車椅子ゆえのこと、
この二つが自分の人生、その違いを思い出します。



* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』
* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 「階段は進化せず、建築家は創造者にあらず」
* 『深緑色の画面・深緑から利休鼠』
* 「都落ちの心情を癒してくれた郷土」


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『超軽量で収納コンパクトな電動車椅子をめざして』


   


     11月 3rd, 2016  Posted 12:00 AM



「車イス」で不可能なことはいっぱいあります。
中でも、階段を上ることは不可能ですが、
ほとんどプロとも思えるバスケットの選手が、
リハビリ訓練で階段上下動見たことがありますが絶対に不可能です。
エスカレーターでは登り専用では介護を伴って試したことがあります。
これは地震の際は、エレベーターは全く使えません。
今では階段を上下可能の車イスは
車輪そのものが無くてキャタビラ車輪はありますが、
自分が試したことが無いので使用感はわかりません。
さらに、浮力性があって潜水可能な車イスは見たことがあります。
現在自分が使用している車イスを越えているのは2台程度、
その中でも電動車イスは相当に出てきましたが、
自分が採用し使用しているのは、折りたためることと軽量でも20Kg。
車載、さらに海外への飛行機では、何度もトラブルを経験しましたが、
ADA法(USAでの身障者保護法律)通過していることを理由に、
あとは、リチウムバッテリーゆえに機長判断になります。
これまでは一人称デザインでの車イスゆえに、自分専用でした。
そして街では見かけられないことから、調査までされましたが、
美術館やハウジングメーカーさらにはオーダーメードに徹してきました。
哀しみのためのデザインをCARNA=スニーカーのような車イスから、
新たな素材や車輪で超軽量で収納性での
コンパクトな電動車椅子がようやく見えてきました。


* 『レコード盤に五塵ありなのだろうか、ならばその塵を取る』
* 「現在使用のバッテリーパック・・・携帯電力を再考」
* 『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』
* 『盟友のエッセイから思い出した=スタイライゼーション』
* 「デザインは皆無だ!・・・誤りのデザイン」


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『駅改札ゲートを見下ろす防犯カメラに新規デザインを』


   


     10月 21st, 2016  Posted 12:30 AM



最近、上京するのはほとんど新幹線が多いのです。
理由は、時間にこだわらずに車イスでも乗りやすくなったからです。
ただ、エレベーターでの優先度は日本は本当にエチケットがありません。
若くて充分に階段で行ける人と出会えば、真っ直ぐに文句を言います。
ワイフからはそんなことをしていたら、刺されるよ、とい言われますから、
とんでもない手袋をしていることもあります。
しかし、いつも思うのは駅建築の貧しさを感じます。
やがて、車イスの人が多くなってきたらどうするのだろうと思います。
今回、東京の八重洲改札口で天井を見上げたら(左)、
改札ゲートを見下ろすカメラの多さにびっくりしました。
確実にこの日本も防犯カメラは一段と増えています。
そして、大阪の改札口のゲートには仰天するほどの防犯カメラです。
大阪は、それだけ犯罪が多いのかも知れない。
最近は、犯人逮捕では防犯カメラでの写真紹介がとても増えています。
あのカメラ自体のデザイン変更は、すでに自分のデザインアイディアには
明確にありますし、その実験も終えていますが、コストの問題があります。
思い切り、駅全体のデザイン、それは建築空間として、
特に乗降客の高齢対策は見直しが絶対に必要です。
確かに、自宅内、研究室内もスマホで観られる時代になっていますが、
カメラ自体の新規デザインが必要になっています。



* 『変だ! おかしい、狂っている、それは・・・私か?』
* 『見慣れないのではなくて無視にも気づかない無知さについて』
* 「新幹線ホームのエレベーターは再デザイン必要」
* 『最近はリチウム急速充電の電動車椅子に乗っている』
* 『エレベーターという発明と社会倫理』


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『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』


   


     4月 14th, 2016  Posted 12:00 AM



「鏡の背後には冥府への階段がある。」by 宮川淳
自分はこのフレーズを美大生の時に読んで以来、
それが現代美術へのひとつの大きな入り口になっています。
彼のデビュー作であった「アンフォルメル以後」は
今なお自分のアートからデザインに向かう姿勢の一つです。
まず、「芸術とは何か」という問いかけのその結語は、
この質問は、ただ、表現の再生産でしかなく、
「何が芸術か」という結語から、
彼はあくまでもデザインへの懐疑へ。
自分は、「何がデザインか」を常に問いかけ続けてきました。
しかし、未だにデザインは大きな懐疑=問題解決ではなくて、
「装飾」と同義だということです。
最も具体的には、オリンピックエンブレムデザインの公募や
政党マークの公募に現れています。
表現の再生産を、宮川淳は「鏡」にそのイマージュを重ねたごとく、
それこそ、ルネ・マグリットの「複製禁止」を見て、
ここに明らかな表現の再生産を破壊させられていると受け取る、
その知性がまだまだ育成されていない現実を知る必要があるはずです。
ユニバーサルデザインといえば済まされている思考、
インクルーシブデザインはエクスクルーシブの反対、
スペキュラティブデザインという問題提起での真の答え方、
全てに自分は「デザインとは何か」という、
再生産されてすまされている
「デザイン思考」の低レベルな思考停止の実際を
冷笑して見せることが出来るのです。
もし、鏡の前で自分の左手を挙げれば、
鏡映された自分は右手を挙げていることには気づきません。
だから冥府に降りる前に、「何がデザインか?」なのです。


*『鏡の背後を熟知するため、あるいは解放をめざす』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『AとしてのB・対・BとしてのA、という連語考察』
*『AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1』


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『エレベーターという発明と社会倫理』


   


     12月 26th, 2013  Posted 12:00 AM



人類の発明として、人間が高い場所に登るには、
「階段」で、足の裏と視覚で場所の高度感を感じて移動するモノと、
一挙に高さを移動してしまう「エレベーター」があります。
しかし、この中間はまだ無いことに留意する必要があります。
そして、エレベーターの存在は、私のような障害者には大変便利です。
私自身、車椅子必要者にとっては、
「エレベーター」のおかげでどれほど行動が楽になったことでしょうか。
建築は勿論、飛行機から新幹線などの乗降ではいっぱい体験してきました。
特に、新幹線では、まだエレベーターが無かった頃は、
東京駅では終戦映画で観る、「地下道」が利用されていました。
今も「地下道」は、駅の運営では大事な場所になっています。
しかし、海外から車椅子の人があの「地下道」では、
その臭いや雑然とした戦前からの印象は余りに酷いものです。
私の役目と思って、国土交通省に乗り込んで実情を訴えました。
当時の扇大臣が視察をして驚愕をされたと聞きます。
すぐに「エレベーター設置」が決定しましたが、
完成したのはその3年後でした。
最近は、あのエレベーターは、障害者やベビーカー優先です。
ところが、若者達が平然と乗り込んでいます。
しかも、この日本では通常の風景になっています。
大間違いです。
海外では、必ず、障害者や妊婦さん、ベビーカーが優先です。
だから、私は怒って若者に警告をします。
「私は日本人だが、万一、海外の人だったら恥ずかしい」と。
みんなが黙り込みます。
私は、このエレベーターのデザインそのモノを変えないと、
わが国の社会倫理は護られないと思っています。
現代は、決して「他人との軋轢を避ける人間だらけです」。
あたかも性善説の顔をした性悪説に汚れきった若者が増えています。
これを許すべきではない、「おいコラおじさん」が必要です。
性悪な人間があたかも性善な顔立ちの人間は、
制裁をする必要があると私は判断しています。


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「デザインは皆無だ!・・・誤りのデザイン」


   


     8月 28th, 2013  Posted 12:00 AM



ある商店街の二つの店舗です。
この二つのお店に私は入ったことがありません。
最も、二つとも男性洋品店であり、デザインされている店舗です。
「デザインされているはずの店舗でしょうか?」、と、
私は改めて問いかけたくなります。
もちろん、私が車倚子を前面に出して批判していません。
なぜならばマーケッティング的に、この店舗デザイン?が
あったとしたならば、すでに歩道との間に階段があります。
この階段は、すでに「拒否記号」だということです。
「拒否記号」とは、
階段が歩道との間にあれば、お客さんが入らないのです。
調査にもよりますが、一段あれば10%から30%は入りません。
3段あれば、50%以上のお客さんを呼び込むには、
店舗の商品やその陳列や店舗インテリアに魅力がなければ、
もうこの店舗デザインを発注した意味は全く無意味です。
私は時折、この店舗の前を通り過ぎますが、
お客さんを見かけたことは本当に無いのです。
3段の階段は、当然ながら彼らのお客さんに車倚子の人は皆無。
結局彼らにには車倚子の人は購買者では無いと宣言しています。
果たして、付け足したようなスロープでは、
電動車椅子の人は使えませんし、
私自身、この店舗を覗いて見ても欲しい商品などありません。
折角スロープを造ったとしても、
そのデザイン的な効用も効果も無いことは確かなことです。
それこそ、銀座通りでもこの「拒否記号」は思いの他多いのです。
最近私は車倚子の方を多く見かけるようになりました。
高齢社会になれば、車両や飛行機なども相当にそのシステムを
変更し、やり直しが求められることになるでしょう。
あるとても高名な、建築家の「大先生」が、
「バリアフリー?、ユニバーサルデザイン?、
私は大嫌いだから、私のデザインはこれでいい!」というのを、
あるジャーナリストの方から聞いたことがあります。
多分その「大先生」は歳老われた時、街には出ないのでしょう。


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「『鏡』の存在を知り尽くすこと」


   


     6月 7th, 2013  Posted 12:00 AM



徹底的に「鏡」をテーマにしていた頃があります。
ルイス・キャロル、そして、宮川淳に最も学んだと思います。
私は次世代のデザイナーにも、「鏡」の存在と、
「鏡」の不思議さを知ってもらいたいと願っています。
もちろん、私は「プラトンのオルゴール」に、
この二人を選んでいます。
オルゴールには、I SAW HER STANDING THEREです。
この曲も、私がビートルズで最初に聴いた曲です。
このオルゴールは、ルイス・キャロルであり、
彼の著作「鏡の国のアリス」にその種明かしが一杯あります。
しかも、日本人にとって神道ではご神体でもあるのです。
「鏡の背後には冥府がつながっている」。
これほど明確なコンセプトはありません。
まして、階段そのものが鏡という素材なら、
その場に立っている自分すら分からなくなると思います。
もっと単純に考えると、「鏡面対称」はもっと複雑です。
私は、金沢21世紀現代美術館では、
展示のインスタレーションで鏡を多用しました。
それはとても怖い事も待っていました。
ところが、私のこのインスタレーションを真似る人がいました。
ところが、「鏡」を知らずに単純に映ることしか気づかず、
かえって貧しくて自分の能力までをさらけ出しているのです。
日本人にとって、「鏡面対象」の裏側には、
「天照大神」が居ます。
このことが重要です。
だから、日本の三種の神器でもあるのです。
私の個展で鏡を使ったからかもしれませんが、
私は、展覧会後に、冥府にいかされるほどの体験をしました。
刃物を鏡だけの部屋に配置しました。
その部屋には、リアルとバーチャルで、刃物が見え、
しかもバーチャルな自分も見えました。
その部屋の大きさは虚像空間となって、
物理的な大きさ感覚すら、惑わしたのです。
私は、
次世代デザイナーには、じっくりと「鏡」を知ってほしいのです。


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「ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ」


   


     12月 12th, 2012  Posted 12:00 AM



私は二つのロボットデザインをしてきました。
「舞」(昨夜アップ)とこの「踊」です。
「踊り」をコンセプトにしたのは、
私のロボット形態論+身体論に基づいて、
「踊り」ゆえに足裏を見せて跳ね回る動きの実現でした。
それは、
まだ飛び越えるという動作の実現をするロボットが無かったからでした。
階段を上り、移動はキャスター的な回転運動をしますが、
飛び上がるときは、
足裏を地面にしっかりと着地姿勢から飛び上がる機構です。
そして、障害物を飛び越えた感情表現=心の動きは、
表情に表れるようにと
頬を赤らめさせる(LED発光)仕組みになっています。
まさに、自分の動作への満足感を表すことで、
そのロボットを見ている人には、
満足感や緊張感を心の動きとして捉えることが可能です。
ということは、「心」ということは、
本人よりも周囲が、「あの人には心がある」という他者観察であり、
その他者的な「心存在」を
認識しているにすぎないものなのかもしれません。
極端な言い方をすれば、
殺人者を見て、
「あの人があのような心ないむごいことをするとは思えなかった」、
ということに通じています。
M. ミンスキの「心の社会」での考察は、
心の働きをnomeという概念で分類・分析しています。
しかし、
心の働きの部分をまとめれば
「心」という全体ができあがるわけではないでしょう。
結局、「心」をロボットに仕組むことは可能かもしれないということと、
人間の心というのも、
自分自身で認識する以上に
周囲の認識論に乗っかっているものなのかも知れません。
石黒教授が、彼のアンドロイドでの演劇は、
演者であるロボットにも感情表現=心表現があるからこそ、
観客は感動を覚えていると断言しているほどです。
心・感情と感性の構造は、ロボットを創造していくことでこそ、
もう一度、「人間って何なのか」を
突き詰める大きな手法だということは成立しています。
人間とロボットとのインタラクション以前に、
人工物であるロボットにこそ「心」を埋め込んでいく、
まさしく造形言語・形態言語・技術言語(=機械語というプログラム言語)の統合化が、
ロボットデザインの基礎学として必要になることは明確になってきました。
そして、人工物であるロボットにとっても、
エネルギーをどうやって自己発電していくかということが、
次の問題になっていることも明らかです。


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