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Posts Tagged ‘離脱’


『帯文での私の思想は今も変わらない』


   


     9月 11th, 2018  Posted 5:23 PM



私の自著、それは一応あります。
連載2年半で1冊にまとめて出版し、このシリーズは6冊になりました。
その表紙は、自分でデザインをしてきました。
表紙のデザインは、自分なりの法則に従っています。
また、あこがれであったデザイナーの
「夢の形見に(倉俣史朗のデザイン史)」も連載ののち、
倉俣史朗の死後20年目に初めて出版しました。
書庫内に、私の蔵書の中にいくつかの帯文や共著がまとめてあります。
写真の帯文は、私が美大在学中から持ち続けていた思いと考えでした。
在学中の「玩具」のデザイン課題に、私だけが実寸制作ではなく、
縮小モデル(1/5)とコンセプト、そして様々な仕上げや展開を
モデルの写真にて表現し提出をしました。
しかし、これは課題条件を離脱していました。
実寸の実物ではないことを徹底的に否定をされましたが、
その時の文章の一部がこの帯文に継承されています。
「川崎はまたこうして論理で向かってくる」という教授もいました。
帯文は、玩具メーカの日本市場でのスタート時に出版された本です。
川崎にまかせたらということで
私が名古屋市立大学教授の時に、書きました。
「大人の勝手な思い込みで・・・」という文章がありましたが、
玩具について今でもこの考え方は変わっていません。
私自身は、積み木玩具を子供部屋8畳間一杯にくみ上げていました。
さらに美大では自分が課題の玩具で制作姿勢が
他の学生とは異なっていましたので、
国内製の玩具もまたか!という思いがありました。
「ネフ」が日本で発売になり、
木製であり色彩があり、極めて正方形や三角錘が多く魅力的でした。
日本の玩具がもう一度考え方を修繕しなければならなかったのです。
現在、私なりに特に工業デザインでは
「やり直し」が多いと思っています。


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『日本酒パッケージに納得が出来る』


   


     8月 28th, 2017  Posted 12:00 AM



お酒は時代感覚と国際関係上で、
いわゆる酒税法の変更は知識化すべきです。
私はほとんど買い物はあまりしたことがありません。
車椅子視線で、商品展示のうるささは目眩幻覚になります。
ネット通販とワイフ任せですが、時折、コンビニは立ち寄ります。
コンビニの競合はすさまじいとみています。
先般大手酒造メーカーのポケット瓶スタイルの日本酒をみつけました。
60歳を過ぎてからお酒は飲んでいますが、
ドクター指示やワイフの厳しい管理があります。
この大手酒造メーカーでは、すぐに思い出したのは、
最初の「白い巨塔」ドラマ主人公、自殺されていますが、
TV-CMは思い出したら、ちゃんとYouTube には残っていました。
「白い巨塔」と言えば阪大がテーマ対象でしたが、
最も2年前から、阪大医学部入学者は全員が「白い巨塔って何ですか?」、
という時代になってきたようですから
講演での掴みでは、医学部教授たちには
「白い巨塔から来ました」が使え無くなったようです。
そして、私は思いつけば大学人でありデザイナーゆえ、
次々とテーマアイディアを出しますが、
このプロジェクトも佇んでいます。
それは、この酒造メーカーは京都にあり、
京都の水道管は酒のため一部はステンレスパイプになっています。
日本全国の水道管をステンレスに!とそのプロジェクト案がありますが、
天災・地震国家では、ライフラインである水道管はステンレスではなくて、
蛇腹で地下地震での耐震をと、企画はありますが実現していません。
酒税法にも規制緩和は激しくはたらいていますが、
地方の酒造メーカーは次々と閉鎖されています。
ともかく、大手酒造メーカーも杜氏職人不足ですが、
酒醸造技術の進化はとりわけ日本酒や焼酎を進歩させています。
私は酒類の工程への技術進化に期待をしているのです。
そして、特に日本酒のコップ酒を離脱したこのパッケージは、
正直、やっと気づいたのか、出来てきたモノです。
しかし、徳利(お銚子ではなく)造形は、
私の判断では造形ラインに、センス不足を感じています。
でも、お酒=徳利と杯(お猪口)の構成は納得しています。


* 『酒、現在はジンの効能性=社会的存在価値について』
* 『メセナフィランソロピーが「ジン」酒造企業ではどうか』
* 『「百貨店の終焉」が始まっていると見ている』
* 『レストランテーブルの高さに車椅子使用者ゆえ注目』
* 「荒唐無稽さと完全無欠さなら『ゴルゴ13』でしょう」


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『機能食品である栄養ドリンクの本質』


   


     8月 21st, 2017  Posted 12:00 AM



デザインと言えば、必ず、「機能美」。
機能あるモノは美しい、と言われてきました。
しかし、私はこれこそデザインに大誤解を与えた元凶だと考えてきました。
機能の裏側には機械主義が歴然とあります。
機械工学と今なお大学、学会と大間違いをしているのです。
なぜなら五大機械というのは全て兵器・武器つまり「械」であるからです。
結局、文明を成し遂げた機械は、武器・兵器だったということです。
そこから、実は、これらの栄養ドリンク剤も、
その裏側には兵隊が食事なくとも、身体保持が大丈夫であるという
機能食品であるということです。
私は機械という浅はかさをずーっと発言をしその反感を買ってきました。
名指しで言われたこともありますが、
日本は「機器工学」でなければ、真の文明は語ることが出来ないのです。
そういう意味では、こうしたドリンク飲料は明確に文明のモノであり、
身体機能を支えるある意味では武器だと言えば、また反感を買うでしょう。
しかし、文明は「機」織りで、「器」はうつわなのです。
寒さは機織りで衣服をつくり、飢えは器を要求し,それが文明でした。
文明が文化になっていくのは、武器兵器で闘ってその国を支配してこそ、
やっと文化が生まれていったと明言しておきます。
機械工学にデザインがなじめなかった最大の理由は、
デザインは文明を文化にする手法であったことです。
私はそのことを最も語るために機能性食品の飲料をここに差し出します。
もっと端的に言えば、人間工学を考えればすぐに理解されるでしょう。
自分は安全に相手=ヒト・モノを効率的に機能化する学問でした。
したがって、第二次戦争後には、エルゴノミックスは一端廃棄されて、
ヒューマン・ファクターエンジニアリングになったことです。
機能性食品である、栄養ドリンク剤は未だ知らされずに開発されたモノ、
すなわち、兵器であり武器だと断言をしておきます。
まさに「征露丸」が「正露丸」となったこの見事な医学的薬剤は、
栄養ドリンク剤に連鎖していたと言っていいでしょう。
「機能美はデザイン」からは離脱させるべきと私は考えています。


* 『若き日、「東京家具見本市」で二人は学んでいた』
* 『デジタル表現の基礎は、烏口や用紙感覚も必要』
* 『哀しみのためから楽しみのための電動車椅子開発へ』
* 『イスと空間、空間の質量を自在化するデザイン』
* 『HUSATとInternet of Medical Thingsのデザイン言語 』


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『サインカーブ的なデザイン主導での製品化と商品展開』


   


     12月 1st, 2016  Posted 12:00 AM



誰もがベンチャー企業家になれるわけではありません。
いわゆるインターネットがらみでのIT企業化は相当に困難だと思います。
1000社のベンチャー企業が30年後には、2.8社しか残らない、
この現実結果はベンチャー企業化の難しさを表していると思います。
しかし、これからもわが国の基幹産業は、
インターネットとの関係は不可欠でしょう。が、IT 化からの離脱も重大です。
しかし、今やブームとなっているIoT=Internet of Thingsは、
勘違いしている企業目標が多いようです。
確実に二つの兆候が目立ってきていると判断しています。
基幹産業は必ずビジネスモデル展開だけでは不足しています。
そして2020年、東京オリンピック後の日本の経済状況は低迷するでしょう。
そこで、もう一度再考の深度を深めて熟考に熟考での製品企画から
製品計画・商品企画・商品計画をいわゆるベンチャーキャピタル的に
デザイン主導を見詰め直したいと考えています。
その思考方法には、ビジネスデザインモデルの提示をし直すことです。
少なからず、製品化のための計画には研究・開発投資は、
リスク投資であることは間違いありません。
そして商品化からの商品展開での投資回収では、デザインは不可欠です。
そこでのベンチャー的な投資とはあくまでも、投資回収が目的です。
したがって、この目標も、問題解決・価値創出・未来創成は少なからず、
デザイン目的の明確な視覚化として、
私はこのサインカーブ的な発想を試行します。
投資目標と、製品化でのデザイン目的をこの図のように設置してみれば、
たとえば、ベンチャー的な投資でのリスクは
デザインが四分の一は背負っていると考えます。


* 『SF映画に示唆される未来性の確認には「目印=sign」がある」
* 『「百貨店の終焉」が始まっていると見ている』
* 「相対化をささえる『かたち』と『ことば』」
* 「ビジネスモデルはビジネスデザインモデルに」
* 「ビジネスモデルにデザインを組み入れた意義」


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『透視図・次元的な隠喩としての焦点というイメージ点』


   


     4月 12th, 2016  Posted 12:00 AM



光は自然現象として拡散する性質があります。
ところが、光の拡散性を絞り込んで集中させることで、
その力を一点にさせることができます。
これを焦点と呼んでいます。
が、光だけではなくて、拡散することを一点に集中させた、
その点を焦点と呼ぶことは、単純な光学的なこの関係を隠喩として、
思考方法にすることができます。
これは焦点化を行うことでいわゆるimage-pointの配置ができます。
「コンセプト思考」からの離脱を主張している要点がここにあります。
まず、dollyとして視点移動から明確なview-pointが決定したとしても
そのview=pointは必ずしも焦点ではありません。
むしろ隠喩的な思考の熟慮もしくは集中化によってimage-pointを
さらに確約化させるのが思考を透視図化すると考えれば
Perspective化した消失点=vanishing pointが存在します。
この消失点への焦点化が思考の目標ということになるわけです。
現実的には透視図は次元数を決定します。
この次元数が3次元になると、ここでは立体図的な
3次元思考が可能になるということです。
次元数と焦点の設定、その隠喩化が思考方法の重大な一つということです。


*『際限は背中に、目の前に未来など無く』
*『まず、ニュートン的力学の隠喩としてのデザイン』
*『風神雷神図=風景から情景のアッサンブラージュ』
*『F映画が示唆していること=その真実性と想像性』
*『情報記号・印=サインからトポロジーへ・3』


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『IoTではなくIoMetというライン手法』


   


     4月 8th, 2016  Posted 12:00 AM



ムーアの法則、その提案者であったゴードン・ムーアが
1992年箱根でのApple社主催のカンファレンスで、
3原則を提唱しました。
土=シリコン、ガラス=光通信、空気=インターネットは
将来、つまり現在を変革すると基調講演をしました。
まだ、30代だった私はそれを信じて以後の動向を見てきました。
私が現在辿り着いているのは「コンシリエンスデザイン」と
その対象を「看医工学」に決定しています。
そして、発想思考方法は「コンセプト」から離脱することが出来て、
「コンセプト」から「ライン」へと更新することを実務実績にしています。
相変わらず、世間的な未来予測は「コンセプト」、概念あるいは観念ゆえ、
「スマートシティ=Smart City」
「IoT=Internet of Things」
「Big Data」という大雑把な概念・観念が吹聴されています。
「AI-Robotics」人工知能のロボティックスとの共生が謳われています。
僕はこれらを「Line Method」でその詳細に入りこんでいます。
理由は、実務対象としての看医工学にするには、
ライン=最新さを伝統的な脈略で吟味する必要があえると
判断するからです。
スマートシティは、明らかに技術進化して革新化された医療環境です。
それはIoTではなくて、Internet of Medical things=IoMetです。
さらにほとんどタイトルでしかないビッグデータは、
サーバーネットワークとその対処対応システムの完備が必要です。
結局、ロボティクスが再生医学に結びつくことは確かです。


*「革新が始まっているから、私の『夢の形見』」
*『「KK塾」大野ゆう子教授からスタートしました』
*『資本概念の変容と変質はイデオロギーを消去す』
*『非常事態宣言の街=パリにて、決意』
*『K塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』


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『広報誌がまだジャーナリズムである』


   


     8月 10th, 2015  Posted 12:00 AM



私は福井在住の頃、福井県行政のまさに敵あつかいでした。
それは福井県行政がいまだに時代遅れ、を指摘するからでした。
県行政からは広報誌など名古屋にはまったく送付無しでした。
今は福井市と越前市から「広報誌」が届きます。
つまり、全国にこうした広報誌はどれだけ発行されているでしょうか。
私は今も越前市の広報大使をしているので毎月の日毎の企画を知ります。
決してこうした広報誌が行政の税から作成されていたとしても、
いわゆる「ジャーナリズム」の基本の基本は全うされています。
だから一般マスコミの雑誌出版は消尽すべきだと断言します。
もはや出版業界そのものが低迷どころかもう時代的な即応性を
失ってしまっていますから、ジャーナリズムそのものは、
新たなメディア、それはインターネットでのHP以上があるのに、
すべての出版業界は発明も出来ないのには私は呆れています。
呆れると言うより、ジャーナリズムの基本理念を喪失してる業界の
能力レベルが時代的に露呈してきただけの実話に過ぎません。
私にとって、デザイン系・建築系・技術系・芸術系などは
現代は全てが行政の発行する広報誌以下のレベルに成り果てています。
その理由を決定的に記しておきたいと考えます。
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
現代を記事として出版しようがHPアップしようが時代読解力無しです。
そして、得てして出版は未来を語ろうとしても、
それらはすべて取材して編集、
それも編集学に無知な記事だと勘違いしているのが出版業界であり、
マスコミもサブカルチャー雑誌も、行政の単なる「日々の記録」を
決して超えることが出来ません。
かつて私は17年もある雑誌に連載をしていましたが、
それは出版としての経済投資効果を得られずに出版が終焉しました。
私はその変わりがこのHPでの小さな物語というジャーナリズムとして
それは自分自身への編集学そのものだと考えています。


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『音楽が終わった宣言は現代最も明確なデジタル改革論』


   


     8月 5th, 2015  Posted 12:00 AM



1980年、ジョンレノンが暗殺されました。
私は自分の青春を終えて福井に帰郷することを決めた一つの原因でした。
その時まだ大学人でもなかった私は新設された「日本記号学会」に入会。
以後大学人になってから色々と学会員になりましたが、
一旦、阪大退官時にはできる限りの学会員を辞めました。
しかし、今なお「日本記号学会」には入っています。
記号論・記号学は「意味すること」・「意味されること」を
あらゆる学問領域で扱われているおそらく最も学際的な学会です。
この学会誌が、とうとうこの結論を出してしまいました。
それはデジタル表現での大きな結論です。
「音楽が終わった」というのはセンセーショナルな問題ではなく、
それこそ、音楽という表現がデジタルで、
表現物を作品=内実的概要と、表現物の作家=外実的概要を、
「音楽」に喩えただけのことです。
それこそ、オリンピックとアスリート、スタジアム建築の問題、
さらには背景がすっかりギルド化された中での稚拙なエンブレムなど、
デザイン作品の内実性とデザイナーという外実性も同様です。
要は、21世紀に完結=終わってしまっているから、
単なる商売的なギルド感覚での資本主義体制にも決着が必要なのです。
この結論から、新たな21世紀の音楽から、スポーツと商売も、
デザインと商売、この商売感覚からの離脱決意を促しているのです。
この論理思考を記号学では「音楽」に喩えただけのことだと考えます。
要は、デジタルという文明は、
もはやこれまでの音楽・美術・芸術・スポーツ、そしてデザインも
デジタルで大変革しなければその解答はまだまだ不明だということです。
オリンピックをデザイン・建築で演出することの時代が、
まだ、商業主義的見栄の国家表現を停止すべきです。
明言すれば、もう音楽は作品も音楽家も不要なのです。
同様に商業主義に包まれたアスリートもオリンピックも不要、
さすれば、デザインもこれまでからの脱却論を開始すべきなのです。  


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3月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

3月7日 辛巳(仏滅)


現代人の知性は
明確な定義を明らかにしている。
それはニーチェの無神論などが誘因?
かもしれません。

「宗教」がすでに知性からは
離脱すべき学術です。
宗教哲学、
あるいは
哲学としての宗教が歴然としてきました。

宗教はすでに洗脳術でしかありません。



川崎和男「喧嘩道」


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『森政弘先生からの仏教論に支援されながら・・・』


   


     8月 6th, 2014  Posted 12:00 AM



8月に入って、私はデザインの語彙論・根本論に取り組みました。
それは、先般、森政弘先生の東大先端研での限定講義で、
私はまたあらためて自分の能力を洗い出しされました。
華厳経を学び直すこともままならなず、
先生からのメールでは260冊の仏教論解説書の紹介を受けました。
これからこれらを全てを読破する勇気に正直、躊躇していますが、
前回は「臨済録」からの重要な一節を先生自らが読まれました。
 「仏に逢えば仏を殺し、
  祖師に逢えば祖師を殺し、
  羅漢に逢ったら羅漢を殺し、
  父母に逢ったら父母を殺し、
  親類に逢ったら親類を殺し、・・・・」、
この示衆の説に書き残された一節に囚われたままです。
先生からは、すでにメールでまた新たな教えをいただきながら、
返信に迷い迷ったままですが、
この「臨済録」で述べられている衣と袱紗について、
身震いするほどの衝撃を受けています。
おそらくこの章のこの一節を自分のデザインに持ち込めるでしょう。
如何に、仏教論がデザインの語彙論や解釈論から離脱出来るかが
今、私が認識し直すべきことのように気づいて感じとっています。
私は「かたち」を持って自分の職能・デザイン表現にしてきましたが
これは日本人として離脱出来るかが問われていると思っています。
解釈の解釈、論理の論理、すべからくを投げ捨てること、
ここ、デザインの語源論という解釈だけでは
自分の表現を自分の生涯に配置は不可能でしょう。
だから、敢えて、自分をそこまで追い込んでみる覚悟でいます。


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