kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘デコレーター’


『投資効果と費用対効果の新しいMADE IN JAPAN』


   


     6月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

「MADE IN JAPAN」のモノづくりは一時厳しい時がありました。
韓国・中国、あるいはアジア製の廉価版に押される状況でしたが、
日本のモノづくり、特に、デザイン商品の正当さは残っています。
それはいかに日本のモノづくりが真面目で正直だったかということが
伝わり始めたからでした。しかし、そのために国内では、
廉価版や、いい加減なモノづくりが増えてきたことも事実です。
デザイナーはデザインを学ぶことで、年齢とともに、自分の中で、
デザインの歴史や美学性の系譜がそのまま表現されるものです。
ただし、それはデザイナーとしての才能が育成される能力に、
見事に比例していると、私は評価してきました。
しかし、現在、企業対デザイナー、行政対デザイナーの関係は
従業員と職員、経営者と首長すべてがデザインを大誤解しています。
明確に言えば、デコレーターが氾濫して、それをデザインだとか、
あるいはブランドづくりの専門家が必要だと勘違いしています。
私はあくまでも「デザインは感性での問題解決」と定義しています。
だから、東京一極主義に対してなどはどうでもいいことですから、
私流には、都対鄙、Made in Japan は、場・日章マーク・日本に
まとめて形態・情報・制度、これらの総体デザインを目指します。
ここに取り上げたのは、すでに私のプロジェクトで、
国際化していく新しいMade in Japan表現です。
それには、デザインへの投資効果、すなわち費用対効果に乗っ取り、
必ず、デザインによる投資回収を目論んでいます。
ただし、日本が大借金国家ゆえにやがてはあのギリシアという、
この頭の悪さや、経済評論なのか政治評論なのか不明甚だしさを
私は強く反発しておくつもりです。
なぜなら、私の目指すデザインは、
形態・情報・制度の新たな新化と進化で、
必ず費用対効果を上げるモノ・コトを成し遂げます。

『昭和に「東京」への地方から・歌手たちの想い』
「グローバリゼーションはローカリズムの対極だろうか」
「一極集中・東京が引き込んだ失策」
「東京一極集中は『情報空間の進化』で変容する」
「花綵を断ち切った、都と鄙、けれどもNetwork社会に希望」


目次を見る

『装飾はデザインにあらず、されど装飾はデザイン可能』


   


     2月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

デザインが装飾と受け取られていることを最も嫌悪しています。
従って、芸能人が「デザインしている」ということに、
最もデザインの本質が最大誤解をされていると主張してきました。
それはデザイン=問題解決の手法であり、
問題解決無関係にスタイルだけの装飾はデザインでは無いのです。
単なるデザインという一般的解釈はデコレーションに過ぎません。
一般的にデザイナー=デコレーターがほとんどだと断言します。
装飾家はデザイナーではありえないのです。
しかし、装飾をデザインすることは出来ても、
装飾だけをデザインされたということは不可能だということを、
多分私は生涯をかけて言い続けることになると考えています。
装飾されたことが経済的な付加価値を持つことは可能ですから、
「装飾」の本質を常に確認することが必要です。
装飾をデザインするその肝心な意味意義を明化することです。
その一例に私が日常使っているモノで「装飾」を視ると、
これらは私がスケッチだけのツールですが、装飾されたモノです。
これらの装飾に一貫しているのは手造り=工芸性があることと、
素材への工芸的な加工性が最高の水準のモノに装飾性を認めます。
スケッチツールとしての「性能性」は、
それこそ100円のボールペンでも一向に構わないのです。
一般的に「機能性」が完備されている設計をデザインと言いますが
これは間違いです。
重大なコトは、日常の使いここちにモノの「効能性」があります。
私の気分でモノの使い勝手に「ここち良さ」を与えてくれるモノ、
それは気分が感情よりも感性を制御するほどの美的影響性です。
つまり性能+機能をさらに効果向上してくれる効能に、
「装飾」されたデザインが加わるということです。
言い変えると、工芸デザインは「装飾」の本質、
それは「これまで感じ取ることが出来なかった」程、
その素晴らしさ=美しさを創出したモノのデザイン=解決値です。


目次を見る

『「デザイン」=本来は政策に直結すべきだ!』


   


     12月 19th, 2013  Posted 12:18 AM

デザインを美術科目から社会科目にというのは、
まず、米国ミシガン州で始まり、
教育政策として取り上げたのは英国でした。
小学生が幼稚園児のユニフォームデザインを考えるという教育。
かつてアートとデザインの違いを簡潔に、私はこう述べました。
アートは主観的表現であり、デザインは客観的表現であること。
今、デザイナーと自称しているほとんどはデコレーター。
インテリアデザイナーとインテリアデコレーターは明確に、
彼らの専門知識が異なり、教育方法も別個です。
わが国の「環境デザイン」は公園や建築系ですがこれは大間違い。
韓国では「環境デザインでこそロボティクス環境がテーマ」。
だから政策的には「デザイン」がどれほど国際的に、
私たちの日本は遊離し始めているのです。
今、国策である「COOL JAPAN」にこそ、デザインはもっともっと、
「包括的=Inclusive Design」でなければいけいないのです。
私が40余年デザイナーを職能にしてきた最大の目標、
それは「問題解決の実務表現」の職能家であること、
そんな話を稲田国務大臣・越尾秘書官・藤巻参議院議員に
決定的な話がスムーズに伝えることができたと思っています。
知性無き左翼系の国策全て非難主義などまったく無意味です。
3.11で学んだ真の事を、独裁政治で拉致被害者を取り戻せない事を、
すべからくが、「デザイン実務」で解決を図ることの大事さを
私は語り尽くしたいと思っています。
デザイン無き工学的手続きがどれほど無意味かも徹底的に、
論理背景と表現実務で「実現の時期」が来ているのです。
未来・夢・理想に向かってこそ、私たちの生涯が、
死に向かって生をうけているからこそ、
生きている現実に覆いかかっている問題にその解決、
つまり理想と夢と未来を創っているのです。
私たち日本には「わび・さび」に至る「美」があることを、
彼らとの昼食後は、二つのマスコミにも伝えて帰阪しました。


目次を見る