kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘バッハ’


「Glenn Gouldの先見性」


   


     10月 31st, 2011  Posted 12:00 AM

「もし、彼が生きていたなら・・・」、
これは時代に先行した天才を偲ぶパロールです。
東京の定宿にしているホテル傍の映画館で、
「グレン・グールド」(天才ピアニストの愛と孤独)を
観ました。

出張に持ち歩いているiPodにはApple losslessでrippingした
彼の音楽はほとんど全てが入っています。
「グレン・グールド」は、
ドキュメンタリーの穏やかな映画でしたが、
しみじみと彼の生涯の一端を知ることができました。
定宿はどこでもiPod用スピーカーシステムは預けてありますが、
彼の演奏は時折聴きます。
グレン・グールドは、
「レコード演奏」という形式を創り出した人です。
それもすでに半世紀前です。
そのためにLPレコードがコンサートより、もっと、
本来の演奏を聴かせられるという哲学がありました。
「レコード演奏」のために録音方法を進歩させた人物です。
だから、オーディオファイルにとっては、
彼の音楽ファンというより、彼の演奏そのものを
オーディオチェックにする人たちが沢山います。
私も彼のピアノ演奏でのキータッチ音の再現性を
音響装置のチェックにすることがあります。
最近ではスピーカーの周波数帯域を
全く明示しないメーカーが出てきています。
私はスピーカーづくりとして無責任だと考えています。
従って、TVなども論外の音作りになっていると言っていいでしょう。
私は少なからず、F0と音圧は「性能表示」として重大だと考えています。
また最近では映画のリゾルーションは満足できません。
それは液晶TV50インチ以上で最高にいい機種は、
映画の解像度を追い抜いてしまいました。
最もほとんどすべての液晶TVは、耐えがたい映像です。
私の自宅の映像と音響システムは多分最高だと断言します。
彼の音楽については当然バッハのみならずまさに天才。
そして録音技術を演奏家・音楽家そして演出監督として、
最高を求め続けた人でした。
彼の「孤独感」を映画は、彼を支えた人たちの声で綴っていました。
その一人は、私の眼鏡をしていました。
1982年、彼は50歳で夭逝しました。
1984年にMacintoshが登場したわけですから、
彼は「パソコン」を知らなかったことになります。
グレン・グールドがMacを使っていたら・・・
ピアノ演奏はもとより音楽再生はどうなっていたのだろう。
私はしばらくは毎日グレン・グールドを聴くことになるでしょう。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「Serviceという経済のウロボロス化」


   


     12月 13th, 2009  Posted 1:00 PM

091213service2
091213ouroboros_b1

Serviceという言葉は、止めどなく拡大化してきました。
だから、その由来性は消尽してしまいました。
その由来性を辿ると、
それは「宗教」・「宗教性」と「経済」・「経済性」に、
「ウロボロス」という原始宗教的な、「善悪」の曖昧性を
歴史の中で消去しようというある企みが見えてきます。
その企みを主導したのは資本主義です。

断言をする時期がきています。
「サービス産業」とは宗教という労働集約性の欺瞞・悪が、
実は背後で蠢いています。
時にそれは、頭脳集約を目標化させる正当・善らしさに
変貌しています。
サービス語源の由来から判断すれば、
「サービス産業」とは新興宗教法人です。
あるいは学校法人という経済構造の制度です。

「サービス」は無財なる経済の対価制度として、
資本主義経済の中でその由来性を抹消できたのです。

● サービスが宗教音楽であったことをご存じでしょうか。
  バッハであれベートーベンであれ、
  serviceに頭を垂れて、音楽に対峙していたのです。
● サービスが軍事奉仕であったことをご存知でしょうか。
  愛国心に命を捧げることになぜ勇敢だったのでしょうか。

つまり、
人間は、人間界は「生きて」なお、
「神」それはあらゆる宗教神に、「奉仕=service」して、
「死」をむかえることになります。
私たちは、「神に頭を」垂れます。

「サービス産業」は、「頭を下げて」、
経済労働=感情労働の対価を得るのです。
日本の「サービス」という言葉は、
やはり米国からの外来語でした。
「サービス産業」は、感情労働の対価の区分を、
ようやく、わが国も制度化しました。
「サービス」、特に「情報サービス」は、
資本主義の頭で尻尾を飲み込む姿に変身し始めています。


目次を見る