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Posts Tagged ‘幸’


『企業隆盛は生活の幸不幸に成り立っている』


   


     11月 21st, 2016  Posted 12:00 AM

第1回目の「KK適塾」は、講師にコンセプター・坂井直樹氏、
そしてMCはデーブ川崎氏に参画を願いました。
坂井氏と私のプレゼン後は、会場からの質問を受けながら、
コンシリエンスデザインへの思考手続きに応答を重ねていきました。
その場での応答に、私が即答したことがあります。
それは北欧企業での対比についてです。
ノキア社と言えば、1990年代初頭には通信インフラでは、
世界的にNo.1の企業存在でしたが今はとても企業効能性を欠いています。
ノキア社は元来は製紙企業、それも1800年中期から、
時代対応では優れた企業でしたが、現在は低迷しています。
比して、家具メーカーであるイケア社は隆盛を極めています。
イケアが日本上陸を希望してきたころ、
私はある大手百貨店のコンサルタントとして、その企業上陸への
「反対派」になる使命を受け持ったことがありました。
それは日本の家具市場を守るためでした。
当時の彼らの商品参入は、とても日本の生活様式では無理であり、
万一、彼らの上陸ともなれば、家具業界は生産と販売では完敗が
必ずあるものと自分も熟知していました。
ところが現在イケアには余りの廉価商品さらに販売手法が優れています。
国内でも廉価商品の家具メーカーが対抗しています。
ノキアとイケアを比べてみると明確な現代社会にとっての尺度が見えます。
それは「幸せな商品」はどちらの企業に効能性があるかということです。
KK適塾1回目の結論は、「幸せのデザインとは?」になりました。
ただし、この詳細な連続性は「幸不幸」の「幸」にその由来があります。
つまり、「幸」とは手かせ・手錠をかけられ、自由度を奪われた象形です。
この話を次回のKK適塾に繋いでいくつもりです。

* 『日本人の根本的な倫理観、その原点を見つめ直す』
* 「幸不幸の連鎖の中で」
* 「あらためて『幸』文字の意味をかみしめる」
* 「衡はバランス=尺度感であり、現代問題の衡とは?
* 『倫理観の原点、その詳細の要点を語り継ぐ』


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「わが日常の仏様と幸と合掌と」


   


     1月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

3.11以後、私は未だに解放されていません。
それは28歳で車椅子生活になってから、
無論解放されてはいないことを強めました。
朝目覚めると
車椅子に乗らないといけないことにいつも本当に嫌になります。
ここで毎日ブログを書いているのはそんな自分への内省表現でしょう。
さらにこの10ヶ月懸命に企画書に取り組み、
私を私ならしめるためには祈りが必要でした。
それでもこの「きもち」を保持し続けることの永遠さを
断ち切りたいとさえ思ってきました。
交通被災後、リハビリも終わって、
父から知人の宗教家の勧めですごい観音像が送られてきました。
即刻、そんな観音像を生活の傍らに置く気にもならず
送り返してえらく父の激怒を買いました。
しかし、人間はいづれたどり着くのかもしれません。
私がAppleのコンサルに入ったときに、
徹底して「曼荼羅」を背景にすべきと思いついたのです。
それが私の仏像興味、仏像知識へのアプローチであり、
仏像の意味やその美術的・歴史的・思想的・宗教的な
様々、広範囲な思考回路が私に取り憑いたようです。
今、生活の傍らにこの三つの仏様がいます。
そして京都に行くと必ず見に行く所があります。
そこにある仏像彫刻を欲しいとさえ思ってしまっています。
ワイフに「あれ自宅にどうか・・・ナンテ・・・」。
老人性鬱病にほとんど囚われていても、
(あれが在れば解決・・・)とすら思ってしまう次第です。
このブログのためにはいつも大慌てでブツ撮りをすませます。
今回も、申し訳なくも大急ぎでカメラに収めました。
仏像写真といえば故・土門拳の写真を思い出します。
そして、彼は仏像を凝視し続けること大変な時間を要したということです。
彼の著作には、確かこのような記述があったと思います。
出典は不明でうる覚えなので正確さはありませんが、
「仏様は、すごい勢いで駆け出す形相がある、
だからその瞬間が来るまで待たなければならない」と。
私はとてもそのような形相に出会ったことがありませんが、
ひょっとすると、
重篤状態で幾ばくかの仏像と対面していたという実感覚があります。
そして、日本おける「オイコノミア」的王座とは、
仏様それぞれの場、まさに曼荼羅に配置された場こそ、仏の座であり、
その座をイメージで捕らえられるかどうかが
日常の平穏さと日常呪縛されている状況での迷いと決断のサイクルです。
それが両手を縛られた「幸」なる象形ゆえに、
あらためて合掌=祈りによって、まず両手から解放させられるのでしょう。

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「あらためて『幸』文字の意味をかみしめる」


   


     4月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

天災・人災を日本人は直視。
不幸な時代に入ってしまいました。
誰もが幸運で幸福でありたい。
そういう意味では日本は「楽園」でした。
しみじみと今思い起こしています。
私は講演でも、時々、デザインが幸福に直結する話をします。
それは私自身が、車椅子生活になったことは「想定外」でした。
しかし、私が交通被災に遭うかも知れないことぐらいは、
絶対に想定しておくべきことだったのです。
それでも、身体障害者・心臓障害者になったことが、
最初は自分の「不幸さ」をどれほど自分に詰問したことでしょう。
ところが、今では、だから幸運だったとさえ思っています。
さて、「幸」という文字はもちろん漢字ゆえに古代中国発祥です。
「幸不幸」という文節として登場しました。
すなわち、「幸」であるのか「不幸」であるのかは、
神に試された結果だという物語です。
断崖絶壁に立たされていて、神が背中を押して突き落とすのです。
それでもその絶壁を登り直して、
生きながらえることを「幸」と呼び、
その断崖から突き落とされたままを「不幸」という話です。
その「幸」という文字は象形文字であって、
両手首を縛られていて、手の自由を奪われている姿です。
いうなれば、人間が「幸」であるというのは、
実際は「自由の無い、不自由な存在」こそ「幸」なのです。
だから自由平等などは人間には備わっていないというわけです。
不自由な存在が人間と考えればどれほど自分が救われるでしょう。
「幸運」であろうが「幸福」であろうが、
基本的には不自由な存在として「生きる」ことです。
自由なことなどあるわけがありませんが、
自由になれるのは、「想像力の中ではとても自由」です。
私自身は「歩けない不自由な存在」。
「いつ大きな心臓発作がくるかもしれない大きな不安ある存在」。
私がここから抜け出ることができたのは、
「想像力」を源泉としてモノのデザインが出来る職能だったこと。
さらに、それをもっと強化してもらえたのは、
スーザン・ソンタグ著「隠喩としての病い」での解釈でした。
「病気と対峙していくことは市民の義務」(原文ではありません)。
これから、この国・日本の私たちは「不幸」を自分の人生に、
それこそ想定外に背負い込むでしょうが、
「想定外」とは想像力が無いことですから、
本当に「不幸」と成ってしまうのは、
目の前の大きな断崖絶壁を不自由ながら登っていくことです。
私自身、なんとか交通被災から絶壁を登りました。
けれどもまた大きな断崖絶壁を直視しています。
登れる限り登っていくつもりです。
私の特技は、結構自分で「これはヤル」と決めたことは、
必ずやり遂げることです。
頑張ることでもなく努力でもありません。
努力なんて、必ず報われる訳など無いのですから、
「これはヤル」と自分が決めたことは、
必ずやり遂げていくことが「生きる」ことであり、
そうすれば、両親や祖父母にあの世で会えるだろう、
そんな想像力の中では、絶対に「自由」なのです。

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『資本主義からの逃走』
    「人権の自由度はアレオパジティカから語る」


   


     12月 12th, 2010  Posted 12:00 AM

二つの自由
人は自由であるかどうか自問します。
自分自身誰でも自分の自由さに敏感です。
人間の自由さは、次の二つが「人権」の根幹です。
       ● 身体的自由さ(生体の機能性)
       ● 精神的自由さ(表現の拘束性)
さて私は、車椅子生活を余儀なくされています。
よって、まず、身体的に不自由です。
この不自由さには耐え難きことであり、それを宿命と考えることで自分を納得させたり、
あるいはあきらめていることが多くあります。
よって、身障者の社会権としての人権は政治的な配慮によってのみ担保されているのです。
しかし、私などは正直、身障者であることを武器にすることもできます。
あるいは、人間は「差別性」を社会に仕組むことで、身分や財力や地位、
そして能力で平等性を離脱させることをほとんど謀議としていることは明白です。
このことを事例とすれば、如何に世間・世情は、「不自由」であること、
「生きている」ということは、「不自由さ」に充ち満ちているということを
認識する必要があると私は主張しておきます。
したがって、幸福・幸運という漢字「幸」という文字形象には、
人間が両手を縛られている「不自由さ」を表示しているのです。
人間は生まれながらにして「不自由」な存在だということになっています。
表現の自由・アレオパジティカ
したがって、身体的な自由さも精神的な自由さも、
その象徴、その具体性に「表現の自由」を取り決めてきました。
「アレオパジティカ」から、
この「表現の自由」が政治とどのように対決してきたかということを
思い起こさなければならないのです。
私は身障者ですが、「アレオパジティカ」ということから語れることが武器だと自負できます。


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