kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘概念形態’


『資本主義からの逃走』
 「現代アートの象徴性からデザインでの創生へ」


   


     10月 28th, 2009  Posted 10:38 PM

資本主義の崩壊は、1927年に「予見」されています。
それは、「大恐慌」の2年前のことです。
それから20世紀の戦乱となり、冷戦につながりました。
共産主義・社会主義・資本主義・民主主義という
理念の崩壊は、1970年代からだと私は思っています。
なぜなら、時代変革の「予見」は、経済学・哲学などよりも、
「現代アート」にもっもと端的に、象徴されているから、
感覚、感性で「予見」の正当さを理解できてしまうのです。

その「予見成立」の理由は、単純明快にまとめられます。
ひとつ、「南北問題」、とてもなつかしい言葉です。
ひとつは、「宇宙船地球号」。
もうひとつが、「コンピュータ」です。
ともかくこの三つを置き換えると、

● 先進国と途上国の貧富格差とあらたな民族紛争。
● 地球環境問題、温暖化やCO2やサスティナビリティ。
● パソコンとインターネットでの情報意識社会化。

ということになるでしょう。
二つの現代アートが象徴しています。
まず、地球を象徴化した作品と、
tomas-saraceno・Universes in Universe : Tomas Saraceno

人間の生命を象徴化した作品です。
rafael-lozano-hemmer・Pulse room : Rafael Lozano-Hemmer

地球は、まさしくwebsite=蜘蛛の巣のように、
情報に包み込まれているのです。
包まれているのではなくて、
「包み込まれている」ことにこそ、
時代認識の象徴がある。
その時代認識は、
資本主義と民主主義に包まれているのか、
「包み込まれている」のかということは、
大きな差異があるということになります。

そして、
もう一つの、観客である人間の生命をそのまま、
脈拍を電灯の点滅で具体的に感じ取らせつつ、
空間、それは地球でしょう。
そこでの「自己の存在性」を再認識させる作品です。
私は、この二つの現代アートに具現化されている
「包み込まれている」という認識は、
ただただ、それこそ、Bottom of the Pyramidの
トップゾーンの1億人だけが、現代文化として、
平和に、いや平然と受け入れることが可能です。

結局、
「地球に存在、生きているすべて」の人々が、
認識=包み込まれているわけではありませんから、
そこに、資本主義って?、民主主義って?ということ。

「包み込まれているすべて70億人の認識」には、
決してならないとするなら、
Bottom of the Pyramidの根本や基盤や理念は、
再創生されるべきではないかと私は思います。

私は現代アートの象徴性を読み取りながら、
再創生のデザインがあるべきだと考えているのです。
しかし、哀しいかな、現代アートが示しているのを、
理解し、さらに「予見」できるのは、
トップゾーン1億人の中の、一握りの人たちだけです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「観念論の構造と感覚論の機能」


   


     10月 16th, 2009  Posted 7:00 AM

「観念」と「感覚」の構造と機能が
イデオロギーの四句分別になっています。

ideology2

「観念」が主義主張されるとなれば、
その構造には、
「神話性」や「政治性」が備わるものです。

主義主張する人物には、
決まって、「カリスマ性」が生まれやすくなります。
その「カリスマ性」が
神話性のシステムを自然と引き込むものです。
それが、感覚的に機能を発揮すると、
イデオロギーは、共有感覚をともなって、
連帯意識を強化するものになります。

また、神話性を打ち消しつつ、
その主義主張がある種の支配構造を生み出します。
これが、「政治的な体系」、
すわわち支配システムとして機能を持ち始めます。
この政治的なシステムは、
制度性すら装置化して、
「拘束的な機能」になることがあります。

ともかく、神話性のシステムは、
連帯感覚を強化する働きがあり、
政治的あるいは制度化ということにまで至れば、
「拘束性」という不自由さを与える装置になるわけです。

「構造」、つまり関係性をシステムと化すのは、
「神話性」と「政治性」を、資本主義は全否定しました。
この全否定から、「民主主義」が派生したのでしょう。

この「関係性」への反撃論が
私は「資本論」だったと判断することができます。
「神話」と「政治」の結びつきを解き放つために、
「政教分離」というまことしやかさが
「民主主義」に配置されていたのでしょう。
連帯感は必ずその集団を拘束することにもなるわけです。

イデオロギーを終焉させるには、
観念をベースとした概念形態が、
意識装置の機能として、
連帯と拘束を解放する必要があると考えます。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「概念形態の体系と意識装置の体系」


   


     10月 15th, 2009  Posted 7:00 AM

デザインにとって、
「概念」=コンセプトというのは、
発想の原点であり、
結果である評価としての終点です。

したがって、
「イデオロギー」という思考背景となる観念論、
イメージを「ことば」として認識、
すなわち印画紙である脳内に定着させる方法は、
きわめて重大です。

ideology1

それは、「概念形態」として、
二つの構造系から成り立っています。
一つが、
「価値」、その体系化ができるかどうかです。
もう一つが、
「分析」という体系化ができるかということになります。

ところが、その観念=イメージに潜んでいる論理は、
「感覚」として把握されるものです。
見事に「概念形態」は、
「機能」を感覚に差し向けているのです。
必ず、その形態を感じることで、
理解する方向づけを迫ってきます。
それこそ「意識装置」で身繕いできている人間の存在性です。
それを確認できるのは、感覚であって思考ではありません。
その装置こそ、
自分が行動をしていくことの方向付けをさせられているのです。
しかもその「正当性」を納得できることにまでなります。
このように私は整理しています。

「資本主義」というイデオロギーの「概念形態」、
そこから感覚として自分の行動、
翻れば、社会や時代の方向付けと、
絶対的な納得という正当性、
それがあったということを明確に分別できるわけです。


目次を見る