kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘浄法寺山’


『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』


   


     12月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

今月はフランス・香港と海外出張が続きました。
帰国すると、東芝時代の上司から写真が届き、懐かしさ一杯です。
5歳当時からスキーに親しんでいたおかげで、
車椅子生活を宣告された時一番に感じたことはスキーができない、
これが最大の問題だとさえ思ったほどです。
この写真では、フィッシャーのメタルスキーとサロモンです。
知っている人には分かるはず。ゴーグルはまだ持っていました。
このメタルスキーは、夏でも剣岳の雪渓がミラーアイスでも、
十二分に可能なほどでした。
もう一本は、ジャン=クロード・キリー が国内でサインをしたK2。
当時は、ドルフィン=今はフリースタイルと呼ばれていますが、
これには最適の柔らかさがあり、この二本を使っていました。
ご覧のとおり、全身はスピードスキーのために、
エラスティック素材の全身スーツを仕立ててもらっていました。
スキー靴もランゲというほど、スキーのためには、
最上級品にボーナスをつぎ込んでいたほどでした。
小学校・中学校時代もスキーばかりしていたようです。
高校時代も浄法寺山(1053m)ならば連休でも滑れました。
東芝時代は、得意な連中とは奥志賀に籠もって「回転や大回転」。
山登り・ロッククライミング・スキーが出来ない身体ですが、
若かりし日のこの写真が届いて、
11月後半から海外でのデザイン状況を見ながら、
私に残された日々、どこまでこれからの自分の役割があるのかを
もう一度確認することができました。
多分、書き残すことが多くなるのかもしれませんが、
わが国のデザインは、企業戦略からはやや離脱しているようです。
すでにデザイナーとしてスタートしたとき、
常に、スキーには拘っていたことを想い出しました。
また今夜からブログを再開します。
よろしくお願いします。


目次を見る

「資本主義からの逃走」・『謹賀新年』」               「兎と月と思い出と」
    


   


     1月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

兎猟
兎にはいくつかの思い出があります。
母方の祖父は宮大工の大棟梁でした。
そして、小さな村を持っていました。
今も、Google-Mapではその場は「商店名」になっています。
私は最初の外孫で男の子でしたから、
祖父はじめ周囲の用人の人が、兎猟での仕掛けなどを見て育ちました。
だからどのような刃物、というより鎌に近い刀での解体などの場面と味も思い出すことがあります。
福井市から最も近い1053mの浄法寺山では、春には斑模様の山兎と出会うことがあります。
その出逢いの緊張感には、兎の生と死があり、
それがそのまま月という陰暦性の生と死が私の中では結びついている気がしてなりません。
とりわけ兎の糞についても独特の消化機能が働いた結果があり、
その臭いや固さなどが記憶には明確にあります。
そして、何よりも「うさぎ」の語源説では、
「月」と「うさぎ」のつながりがサンスクリット語にもあったはずです。
ひょっとすれば、私にとって今年が最終の卯年かもしれませんが、
もう一回12年後の卯年程度は迎えたいものだと願っています。

元旦


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「曹洞宗第一道場・吉峰寺での『薪』割り」


   


     8月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

浄法寺山
福井市内から北東には加越国境と呼ばれる山並みが見えます。
加賀(石川県)と越前(福井県)を区切っています。
冠岳・浄法寺山1053m(記憶が正しければ)・鷲ケ岳がすぐに目に入ります。
その山系の奥に奥越国境があり、白山が見えるのです。
冠岳(808m)は高校時代に最初のロッククライミングを始めた岸壁が頂上付近にあります。
浄法寺山は高校時代は5月の連休でも渓谷急斜面の残雪でスキーができました。
高校時代には、とりあえず台風が来るとなると登山にあけくれ,
中間考査をいくたびか下山できないとかでサボっていました。
この加越国境の手前に九頭竜川があります。
道元は丈競山という双子の山に登りその浄法寺山にて寺院建立案を考えました。
そして、九頭竜川を挟んだ真正面のささやかな盆地、
そこに「永平寺」を建立することを決意したと言われています。
その「永平寺」建立の間に「吉峰寺・よしみねでら」地元では「きっぽうじ」を仮住まいにします。
吉峰寺
さて、私はこの「吉峰寺」には中学時代と高校時代の夏休みに、
祖父と父の命令で私は修行させられた経験があります。
多分、今も永平寺の第一道場として、曹洞宗の禅僧エリート養成所のはずです。
何故、このお寺に預けられたのかはあまり言えません。
目に余る喧嘩や悪い仲間とのつきあいを窘められての教育だったのでしょう。
朝は3時に起床し、便所掃除から顔ふき、さらには食器洗いまでもう色あせた手ぬぐい一本で、
ともかく中学時代は泣きたくなるほどの生活をさせられました。
高校時代は、サボり方も覚えたのと禅僧のエリートの人たちと仲良くできました。
おそらく、ここの住職は、永平寺の管長さんクラスの偉い人だったはずです。
いっぱい話を聞かされ、書を徹底的にやらされました。
この体験が、私は「道元」に惹き付けられている最大の動機だったのでしょう。
薪割り・作務
もっともできなくて危険だったのが「薪割り」でした。
中学時代にはまったくできずに、高校時代にはそれなりにやりきっていたと思います。
「薪」というのはもちろん燃料であり、
風呂焚きと食事、そして冬の暖房のために薪割りは大変な作業でした。
なぜ、「薪割り」なのかは、今、明確にわかります。
草冠の下に「新しさ」があるのです。
新しいというのは、まさしく斧で木を割った樹木、その切れ目を表しています。
それが草冠というのは「エネルギー」であり、
燃えるから「食べる」・「洗う」・「暖をとる」ということができる素材を表しているのです。
「薪」
私は、「薪」にこそエネルギーの根幹的意味があると思うのです。
食べて生きて清潔で飢えと寒さから、
人間は明日「新しい日」を向かえる源泉・元気さを獲得できるのです。
道元が「作務」と言い放った薪割りとは、
生きるエネルギーを得る合理性は自然の樹木から「新た」にする身体的修行であり、
その「作務」は座禅と同様な生きることの意味の思索活動だったと今は納得することができます。


目次を見る