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Posts Tagged ‘熟考’


6月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 16th, 2023  Posted 12:00 AM

6月16日 先勝(乙巳)

「思い込んで、思い込んで」
考え抜いたこと、
つまり、
熟考を深めたアイデアの成就が
作品になったからといって、
モノの意味性が
語りきれるものではない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』4画家とともに


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6月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 12th, 2023  Posted 12:00 AM

6月12日 先負(辛丑)

デザイナーは、
「接着」という「破壊」を、
素材論のなかで真剣に熟考する
時代に生きていることを
再確認しなければならない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』3硝子の音色


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4月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 30th, 2019  Posted 12:00 AM

4月30日 仏滅(丁酉)

「思い込んで、思い込んで」
考え抜いたこと、
つまり、
熟考を深めたアイデアの成就が
作品になったからといって、
モノの意味性が
語りきれるものではない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』4画家とともに


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12月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 22nd, 2018  Posted 12:00 AM

12月22日 友引(戊子)

デザイナーは、
「接着」という「破壊」を、
素材論のなかで真剣に熟考する
時代に生きていることを
再確認しなければならない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』3硝子の音色


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『サインカーブ的なデザイン主導での製品化と商品展開』


   


     12月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

誰もがベンチャー企業家になれるわけではありません。
いわゆるインターネットがらみでのIT企業化は相当に困難だと思います。
1000社のベンチャー企業が30年後には、2.8社しか残らない、
この現実結果はベンチャー企業化の難しさを表していると思います。
しかし、これからもわが国の基幹産業は、
インターネットとの関係は不可欠でしょう。が、IT 化からの離脱も重大です。
しかし、今やブームとなっているIoT=Internet of Thingsは、
勘違いしている企業目標が多いようです。
確実に二つの兆候が目立ってきていると判断しています。
基幹産業は必ずビジネスモデル展開だけでは不足しています。
そして2020年、東京オリンピック後の日本の経済状況は低迷するでしょう。
そこで、もう一度再考の深度を深めて熟考に熟考での製品企画から
製品計画・商品企画・商品計画をいわゆるベンチャーキャピタル的に
デザイン主導を見詰め直したいと考えています。
その思考方法には、ビジネスデザインモデルの提示をし直すことです。
少なからず、製品化のための計画には研究・開発投資は、
リスク投資であることは間違いありません。
そして商品化からの商品展開での投資回収では、デザインは不可欠です。
そこでのベンチャー的な投資とはあくまでも、投資回収が目的です。
したがって、この目標も、問題解決・価値創出・未来創成は少なからず、
デザイン目的の明確な視覚化として、
私はこのサインカーブ的な発想を試行します。
投資目標と、製品化でのデザイン目的をこの図のように設置してみれば、
たとえば、ベンチャー的な投資でのリスクは
デザインが四分の一は背負っていると考えます。

* 『SF映画に示唆される未来性の確認には「目印=sign」がある」
* 『「百貨店の終焉」が始まっていると見ている』
* 「相対化をささえる『かたち』と『ことば』」
* 「ビジネスモデルはビジネスデザインモデルに」
* 「ビジネスモデルにデザインを組み入れた意義」


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『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』


   


     6月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

次世代デザインを提示していくのは、現在デザイナーの使命です。
しかし、現実には、デザイン系大学のほとんどの教員は、
自分のデザイン経験だけを教示しています。
それはデザインの根本に大きな間違いがあるのです。
「デザインとは何か?」を自分の経験だけで、しかも成功体験があれば、
それこそ「何がデザインになるか?」ということには
接近できないからです。
「コンシリエンスデザイン」を提案しています。
その原語はすでに死語化していますが、
探り出したsilienceについて、ここに書きとどめることから
改めて思考の深度に近づいてみます。
silienceとは、
人間には日常、その思考に深さがあることには気づかないことがあります。
たとえば、気づかされることもなく、褒められることも無いけれども、
時には感心せざるをえない熟考された確実で正当な考え方があるものです。
それは、通りすがりなのに饒舌に語られている批判とか、
大道芸でありながらも感心せざるをえない名も無き芸人の大技、
あるいは無名だけれどもすぐれた芸術的な才能に
はっとするようなことです。
これはまったく匿名的で、誰かに賞賛を浴びるものではないにしても、
いわゆる市井に潜んでいる知恵・知識として
見過ごすことができないのです。
silienceということばに近いほど、
沈黙の中に閉じ込められているということです。
こうした、決して光り輝きを自らが発するわけではない、
日常的、匿名的、無名性の中でも、知恵の集合体をあえて掘り出して、
なおかつ、こうしたことを「結合させる」ことは、
konvinationと言ったシュンペンターに繋がっています。
これが新結合=innovationであったことに極めて近い発想論理です。
silienceが結合することは、
隠れた知恵・知識がconsilienceだということです。
デザインが匿名性=アノニマスで支持されたことを再復活させることです。

*『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』
*『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』
*『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
*『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』
*『リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う』


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『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』


   


     1月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」=Design Thinkingというビジネス論が流行しています。
まず、僕はこの流行批評を云々する前に、
「思考」という「思う」+「考える」という言葉の周辺を
金剛界曼荼羅:3×3:に基づいて、「思」と「考」についての
論理を整理します。
「思考」とはあくまでも日本語であり、これがいきなりThinkingとの邦訳は
決して僕は成り立たないと考えます。
その最大の理由は、デザイン+思考であり、
デザインの思考、デザインという思考、デザインのための思考などを
デザイン=問題解決・価値創出・未来創成を
明確にすべきだと考えるからです。
まず、「思考」と「考思」があることと、
そのための論理構造を曼荼羅分析で整理する必要があるのです。
僕にとってこの金剛界曼荼羅に配置されたイメージシンボルは
きわめて重要だと考えるからです。
決して、この配置を思っているのではありません。
「考える」ことと「思う」こと、の配置から、
それぞれのことばの意味と意義を
僕は思考の論理背景に置くべきだと考えます。
この配置からは簡潔にThinkingで邦訳が正確なのだろうかと、
まずは疑ってみるべきだと僕は考えます。
「思う」ことは
感じること、意識すること、考えること、熟考し認識するまで
この二つの曼荼羅は明確に僕たちの再考を促してくれると
僕は認知し、認識することがやっと完結すると思うのです。
この「思い」は感じて知ってまさに思識や思念、考査や考定に至ります。
日本語の概念考察は観念の熟知と認識を位置づけてくれます。
僕は40余年もプロのデザイナーとして、
デザイナーの思考方法がビジネス世界でも有効であると思ってきました。
だからたとえブームである「デザイン思考」を否定はしませんが、
さらに「デザイン思考」を止揚させる必要があると考えるのです。
その止揚に至ったのは、この曼荼羅的な概念あるいは観念の配置です。
「思考」あるいは「考思」を成立させている認知と認識の思量や考慮は
確実に再度、この曼荼羅配置で再考することから
僕は開始すべきだと考え思うのです。
つまりそれだけ人間には「思い」・「考える」という認識、
そこには知識・知恵の世界があるということです。


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『手稿は宝物である』


   


     12月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

私は教員という役目として、学生たちには、友人をつくることを
ことさら薦めて主張してきました。
ただし、友人というのは、今は亡き人たちに友人をつくることです。
彼ら、彼女らは、書籍の中に生きていますから、
本を読んで一方的に必死に友情をもてるぐらいになることを薦めます。
まして、その友人達の手稿があればそれは最高の友情だと考えます。
私の宝物は本物ではありませんが、ダヴィンチとクレーの手稿、
この二つは最高の物であり、おそらく再版されない限り、
美術館での特別展以外は見ることができません。
ダヴィンチはデッサン手稿でとても大きいのですが、
パウル・クレーの「造形理論ノート」は、彼の講義準備ノートです。
手稿ゆえに言葉は独語で書かれていますが、
出版物(今はもう手に入らない)では、ノートと翻訳があり、
ノートにはいわゆる図形、形態の彼なりの原則解釈があります。
おそらく、パウル・クレーほど厳密に図形、その造形解釈、
その論理化を熟考し言葉に置き換えて残してくれた人物はいません。
したがって、よく質問をしてくる学生には、
パウル・クレーと友情を持つことを吹聴してきたものです。
その実、今でも私がすべてを理解しているわけではありませんが、
時に、この造形表現はなにかおかしいと直感すると、
その説明は、彼の造形思考ノートで正解を確認することができます。
たとえば、単純なこと、矢印図形一つでも、なぜ、その平面性や
力学的な特性は、彼の言葉、文章で理解可能になります。
日本ではほとんどバウハウスの教育論が無視されていますが、
文理学際化の源、その教育原理はバウハウスにあります。
「教育原理」という教員資格単位がありましたが、
私は4年間この授業を受けましたが、単位を取らずなので、
結局、中高の美術科教員資格は持てませんでした。
理由は明快です。パウル・クレーの言説論無き「教育原理」などは、
大間違いだと今も思っているからです。
造形理論ノートには、造形課題とその教育理由が書かれています。


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11月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

11月19日 甲午(大安)

私は、私なりに宗教は、
学問、あるいは哲学の対象でしかなかった。
理由は明快である。

多くの哲学者は、
宗教への全幅的な信頼を元にしたか、
あるいは無神論を確信したか、
そのいづれかである。

私は、宗教はひとつの熟考対象であって、
決してそれが信頼にも確信にも至らないと
考えている。

元来、思想や熟考は哲学であり、
それは宗教とは隔絶されていることが科学だと
思っている。

川崎和男「強い人間 弱い人間」


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『芸術は宗教である。=私は信じている。』


   


     11月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

モンドリアンの全てを私は信じています。
現代、芸術史に美術の歴史上では、その芸術家は貧乏の極致であり、
決して生きている時は認められなかった作家は沢山います。
私が直感で、気に入り好きな作品、その作家は自殺した人がとても多く、
自分でも「なぜ?」と、思っていて、いつかすべてを熟考記述します。
モンドリアンのこの「ブロードウェイ・ブギウギ」は、
いつも本当に良かったと思い、私にとっては、最も落ち着ける作品です。
画家を志し、彼の作風はやがて完全な抽象画になっていきます。
彼が、芸術運動=デ・ステイルの中心人物になり、
ようやく、彼が個展で認められて、スターになったときはすでに70歳。
それまでの、画風様式から、「解放」されたがごとくの、この絵は、
芸術の修道士とまで言われ、結婚もせず、完璧な絵画で、
デザインそのものが再考を余儀なくされましたゆえに画家ですが、
私がデザインの完全主義を学んだ重要人物です。
だから、私にはモダンデザインの基礎は、
彼の創作思想を追いかけました。
しかし、社会からやっと認められたからなのでしょうか、
彼の人生最期にはそれゆえの超完全主義がこの絵画になりました。
MoMAに行ったら、この原画の前にずーっといることができます。
芸術が宗教だ、とまで断言してもらえたこの表現こそ、
完全主義を乗り越えたからこそ、ここまでの表現が、
私は確信の真実はここにまでいたるべきだと思っています。
私自身、宗教は信じると言うより、
学んできた対象では重大なものです。
しかし、宗教に私の確信性はありません。
むしろ、自分は自分の中に潜む美、
この美だけが生きがいの対象です。
それゆえに、モンドリアンの思想、生き方、
芸術は宗教断定を認めます。
極貧に耐え抜き、社会的にも認められず、ゆえに修道士のごとく、
自分の思想と理想を守り抜いて、生涯の最期の最後に、
大絶賛はたった2年間です。彼の完璧完全に生まれた、
まさにブギウギ、
この生涯こそ、私は自分もこうありたいと完全に願っています。
私は、作品を創りあげた作者の生き方=思想こそ、
学ぶべき対象だと、自分に言い聞かせています。
この作品にまでなんとしても自分はたどり着きたいと思っています。


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