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Posts Tagged ‘社会的効能性’


『障がい者差別は「差別」という無知者表徴』


   


     12月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

28歳で交通被災、車イス生活を余儀なくされて、
すでに40年も車イス生活をしてきました。
信念として、車イスゆえに障がい者対応を求めないという姿勢を貫きました。
これまで、「差別」を受けたのはまず、リハビリ病院のドクターからでした。
「君は40までしか生きれない。」など。
そして最近になって、私が身しょう者ゆえの差別を受け、
それは私の存在否定論と解釈して理論武装を決めたのです。
かつて解放同盟からの執筆依頼を受け、これも差別と受け取ったとき、
雑誌編集部とは徹底論争で彼らは敗北して以後彼らからは攻撃無しです。
たとえば、商品戦略や企業のデザイン戦略で「差別化」という言葉は、
私の徹底的な批判から非難対象にしています。
「差別化した商品」というのは、商品ユーザーを差別しているのです。
したがって、企業が「商品の差別化」を一端発言したなら、
その企業存在そのものを区別、分別する論理で企業の社会的効能性を否定。
幸いにも私は、大学人になって、名古屋市立大学を離れる時には、
事務方の方が、私のために全自動ドアにできなかったことと言われました。
阪大においても、研究室は吹田市の規定でのスロープ設置、
豊中キャンパスには私のためも考えられた屋根付きの駐車場。
しかし、障がい者雇用促進法を知らない、「障がい者業者生活指導」要綱、
そのはき違えは、おそらく、この公的大学であってすらならば、
社会全体にはどうなるのだろうか、この調査を開始しています。
1860年、咸臨丸が日米通商条約で渡米、
その翌年1861~1865年の南北戦争は、公民権運動が開始される源流であり、
それがADA法にまでたどり着いたのです。
おそらく、この2冊で十分に現在の障がい者差別解消が可能であり、
この理論武装は成し遂げることができるでしょう。
それこそ法廷論争での障がい者差別判例は「ジュリスト」で確認可能です。
新幹線ホームにエレベータ設置を先導し、
ユニバーサルデザインエディケーションプログラムもわが国に提案、
身しょう者運転ステッカーも自分デザインです。
最近は、列車デザインや船舶デザインでのバリアフリーデザイン、
そのいい加減さも発表してきました。
なぜなら、健常者などは絶対に一人もいないのです。
人間はすべて障がい者なのです。
まして障がい者相手の商売をしながらの
差別企業、差別組織には「剣よりも強し」を実践します。

* 『空港ゲートは二つあるが、適当設計過ぎる』
* 『障がい者雇用における差別解消の管轄理財』
* 『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』
* 『「眠る環境」その要素としてのウォーターベッド』
* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』


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『資本主義からの逃走』
  「政教一体と政教分離は民主主義とは無縁」


   


     12月 5th, 2009  Posted 7:54 PM

戦後の日本は、
金科玉条のごとく「政教分離を遵守」してきました。
その意味と意義、機能性と効能性はあったのでしょうか。
私は、まったく無かったと思ってきました。
政教分離を唱えつつも、
 ● 宗教団体をバックにした政党もあり、
 ● 仏教も神道もすべからく飲み込んできた政党と
 ● 宗教排撃ごとき思想によりそっている政党も存在します。
したがって、こうした玉石混淆の政教に関する論理は、
「全く社会的効能性は無かった」ものと考えるべきでしょう。

すなわち、
私は、政教一体であろうが、政教分離であろうが、
そこに公然と唱えられてきた民主主義は、
いわば先進的な資本主義国家体制の共同謀議にすぎません。
ここから、先の私の思想はペンを止めることにします。
なぜなら、
私のペンが私自身を社会的に抹殺、自死へ誘うと思うからです。

私が注目し、
「宗教」を洞察してきた対象の「宗教」は2つあります。
「禅宗」と「シェーカー教」です。

□「禅宗」は、私のふるさと福井であり、
その総本山である「永平寺」です。
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なんとも私の育った環境に大きな影響があったからです。

もうひとつは、
 □「シェーカー教」です。
ボストン郊外に何度か訪ねました。
実際にはすでに観光地化していました。
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それは、「家具」であり「車椅子デザインのためでした。
しかし、「シェーカー教」の教義とその実践である
共同生活、手仕事、労働への敬虔さ、
そのデザインに心奪われました。

そして、
この二つの「宗教哲学」とその「実践」に、
まったく、民主主義は皆無だということがわかりました。
そこから、「いのち」を支えうる「宗教」と「政治」は、
その人間個々の「いのち」の系譜は完全に断絶します。
宗教での「死生観」は、
「政治」どころではない思想が、連綿と連鎖し、
そして、「生きる人格」を決定づけています。
この断絶を受け入れられる強固な「生涯」を
私は選択しました。
結果、
私は民主主義は無効だということを認識しました。
  もっとおおらかで、
  もっと高潔で
  もっと品格のある
「集団的な意志決定=生き様」があります。
私はそれを分別しています。
だから資本主義を静観し、
決して巻き込まれない「生き方」を
デザインに配置したのです。


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