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『資本主義からの逃走』
    「水に支えられている命・杓底一残水汲流千億人」


   


     8月 11th, 2010  Posted 12:25 AM

渇望
「渇望」することの一番は、咽が渇くことです。
交通被災で、大手術後は水を制限されていて今でもこの時の渇望状況は夢に見ます。
夏には父と遠泳をさせられました。海水は飲めません。
海で泳いでいての渇望感は不可思議であり、それだけに苦しみは耐えられないものです。
車椅子生活になってから、「水」へのこだわりはまさに生命力と直結していることを実感します。
高校時代に山岳部に入部して最初の登山で、山水であっても腸チフスになったことがあります。
登山、特に後立山の縦走や、白馬から不帰では水は貴重です。
早月尾根から剣岳までの水の配分を思い出します。
水から学ぶことは、年齢とともにその重大さがわかります。
柄杓橋
さて、900年前に、清流の水に作法を見いだした思索・思想・作法があります。
今、あらためてそのまま気持ちが洗われます。
ふるさと福井の永平寺を見て育った私の幸運さは、
何度も、このことを書いてきました。
永平寺の清流はそのまま永平寺川と呼ばれています。
その川に、橋がかかっています。
「柄杓橋」と呼ばれていますが、私は「半杓橋」という呼び名が好きです。
永平寺の1日の始まりは、僧侶の水くみから始まります。
道元は、その水くみという作務を作法にしました。
曹洞宗の思想は、行動理由を身体的な確認方法として、
その重大な意味を肉体会得させているのです。
道元のまなざしで決定された作法は今なお生き続けています。
杓底一残水
柄杓で流れから、水を汲み上げます。
しかし、柄杓いっぱいから水桶に入れるときには、
半分だけ入れると、残りの半分は清流にもどすのです。
つまり、その流れの水は万人のものという考え方を作法にしたわけです。
道元は、自然からの最も基本的な恵みを「水」とし、「杓底一残水」と言い、
「汲流千億人」は、水を自己勝手にはしてはいけないこととしました。
その作法は茶道に受け継がれてきました。日本人の伝統的な美学作法と言っていいでしょう。
私は「杓底一残水」に気づき今なおその伝統作法の存続を望みます。
そして、自分のデザインしたモノにも、
そのような作法が宿ることをめざしたいといつも考えます。
「水」と「生命」へのこれほど見事な作法での身体化を自分のデザインに見いだせたなら、
私の生命が本当にデザインに密着出来た証になると思っています。


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