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Posts Tagged ‘論語’


『論語からの吉田茂の書が大好きです』


   


     10月 25th, 2019  Posted 12:00 AM

「子曰く、学び手時に之を習う、
また説ばしからずや。
朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず、また君子ならずや。

これは「論語」の書き出しです。
実際的には、孔子の死後に言行録として今でも語られています。
そして、「論語」は経済的な指南書になっています。
「朋遠方より来たる有り・・・・」の書は、
私の東京での定宿のひとつでもある六本木のホテルに飾られいてる
吉田茂の書です。
一流ホテルには、時に心落ち着く植栽や香りの演出、
非日常空間へ導く仕掛け、
あるいは気持ちが高揚する現代美術がありますが、
このホテルには都市の真ん中にぽっかりと空いた大きな緑の庭と
そして吉田茂の書があります。
ここの書がとても大好きです。
帝国ホテルも季節毎の大きな花がエントランスを彩りますが、
パリの FourSeasonsジョルジュサンクの
花の演出には毎度惹きつけられます。
見つめずに通り過ぎるなんてできない圧倒的な存在です。
また、篠田桃紅氏の「人よ」があるコンラッド東京が大好きです。
今回の滞在でも、
吉田茂の書がちょうど心地良く、長めの滞在をしました。


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『資本主義からの逃走』
   「学と論をデザインがつなぐ」


   


     10月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

幾何に向かうデザイン
問題解決を私は「幾何」という言葉を使います。
これは幾何学そのものとは距離感をおいての言葉です。
幾何学という数学論理に閉ざされつつ、
さらに数学論理から解放されることをめざす言葉運用です。
それは幾何学の原意である「幾何=いかばくの、どのような」という意味をを抽出し、
その言葉での学理としてのかたち=容を求めたいからです。
もう一度、プラトンに戻れば「神は幾何学を業となし給う」というテーゼに回帰するのです。
正直、プラトンが本当にこのテーゼを言ったのかどうかはわかりませんが、
学を教わらず学ばずにして論の中には入るべからず、ということは充分に理解できます。
デザイン学
さて、私はデザインは問題解決の一つの手法だと明言しています。
問題解決の手法=実務学です。
「学」となれは、それは「教わることで学ぶ」という相互性があります。
つまり、教わる「学」となっている、学ぶべき「論」がある学理だということです。
少なからず「デザイン学」は、他の様々な学理の歴史時間はもっていませんが、
短絡的に言えば、バウハウスをシンボルとした学校という場に、
学理がそのまま教科書としても存在していました。
ところが、デザインが応用美術であり、産業支援の実務技法という一般知によって、
「デザイン学」が学術論理であるという公認は、
はなはだ希薄な印象に放置されているということも認めざるをえません。
よって、デザインを言葉の道筋として語られることが手法論理=実務学であるがゆえに、
手法技法や技能としての学理という理解を拒否する、さらに私は批判的に言うならば、
古典的な「時代遅れな学術論者たち」からは多大な誤解とその誇張的な喧伝が残存しています。
こうしたことに荷担している論者たちこそ、実は、「学問」と「論理」、
少なからず「学」と「論」のあらたな統合性や誘導性という学理の学際性を破壊している、
そうしたセンス無き談合集団者であることを露呈しているのです。
デザイン論
明らかに「デザイン論」の論議が、デザイン技法を拡張しさらに、
「問題が何か」という、学理=幾何によって、
さらなる「デザイン学」の進歩による拡充が不可欠になってきていることを
あらためて強調しておきたいと考えます。「デザイン理論」にむかわなければなりません。
デザインを「学而時習之」(論語)とデザインを「論篤是与」(論語)によって、
「論道経邦」(書経)が、
現代、デザインが学と論をつないでいることを明快に評していることを提言しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「松柏後凋と詠んだ哀しみ」


   


     9月 30th, 2009  Posted 12:33 AM

出典は「論語」です。
「子曰く歳寒くして松柏の凋=しぼむに後=おくるることを知る」

これは、松や柏、柏も檜の一種のコノテガシワといわれています。
松も柏も常緑樹ですから、
冬になっても、葉っぱが散ることはありません。
つまり、冬という季節になってもそうした常緑樹の姿は不変です。
このように、人間も、危機受難を直視したとき
初めてその人の真価が問われるものです。

冬は、樹木が落葉しますが、
松柏の青緑濃い姿は、混乱している時代にこそ、
その人の信念を表しているというメタファーです。

「安政の大獄」(wikipeda)で、橋本左内は斬首されました。
26歳でした。
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米国から黒船でペリーが現れました。
徳川幕府は開国を迫られました。
尊皇攘夷と徳川家の世代交代での将軍跡継ぎ問題や
公家の様々な陰謀、何重にも複雑な問題の中で、
「国家体制の国際的指針」を明確にしたのは、橋本左内でした。
幕末の志士たちへ、そして適塾(wikipeda)の仲間への
このメッセージを
最も怖れていた井伊直弼(wikipeda)は大老に就任と同時に、
橋本左内こそ政治的危険人物とし、
斬首を思いついてしまったのです。
彼は、侍ですから、せめて切腹のはずが、
斬首という指令こそ独裁でした。よって、
「桜田門外の変」(wikipeda)で、井伊大老は暗殺されます。

この実情を福沢諭吉は傍観を決め込んでいました。
傍観することで、彼なりの意志決定をしていたのでしょう。
一つは、すでに蘭学ではなくて英語が必需だと分かっていました。
しかし、英語は当時、幕府の厳重な管轄下にありました。
だから、幕府を利用しなければ自らを修練はできなかったのです。
そして、1860年の「咸臨丸」(wikipeda)勝海舟(wikipeda)によって、
太平洋を横断し、通商条約締結に向かうことも知ってしまっていました。
「咸臨丸で海外へ」という思いで、
「安政の大獄」は無視せざるをえなかったようです。
しかし、適塾仲間の処刑を十分に知りつつ、
それでも渡米した気持はどうだったのでしょうか。
少なからず、「自虐感」にさいなまれていたと
私は思いたいのです。
だから、彼は勝海舟を批判し、
ワシントンには行っていないのです。

橋本左内が辞世の句で、論語を引用して、
「苦冤洗い難く、恨み禁難し・・・・誰か知らん」
と言い放った相手は
福沢諭吉のように幕府に臥していた人物たちだったはずです。


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