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「消えた自動車は今も語り継がれている」


   


     11月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

ポップコーンの甘い香り、
今では日本の映画館の香りになっています。
私がニューヨークの映画館で体験したとき、
この香りいっぱいに、これがアメリカ!という印象でした。
その時に観た映画がコッポラ監督「タッカー」でした。
しかもそのタッカーというのは親友デザイナーの名前であり父上でした。
1988年にTucker Viemeisterはニューヨークのデザイン団体、
弱冠40歳の議長でした。その時、この映画が封切られました。
その会議に友人として参加しました。
そしてパーティで彼の両親を紹介されました。
父上がプレストン・トマス・タッカーで、
「タッカー・トーピード 」の設計者でした。
この車が果たした役割で現代にも通じている代表例、
それは次の三つが重要なことです。 

  • リアエンジンというエンジンの配置。
  • ディスクブレーキの採用。
  • シートベルトなどの安全対策でした。

映画を観ていただければ、この自動車が消滅した理由は明らかです。
たまたま、Facebookで親友は「父の誕生日」を示しました。
ところがリツイートが多く、私もこれをシェアしました。
日本でも、「タッカー・トーピード 」ファンが多くいました。
そこで私はあえて、このブログに取り上げました。
資本主義の怖さ、社会心理の嫉妬などがこの車の誕生にあります。
そして、この車メーカーそのものが消滅してしまうのです。
おそらくこれは資本主義の悪弊が伝統になる最初の事件でしょう。
日本が再生するとするならこうした悪弊を断絶する国家になるべきです。
先般、ブータンの若き国王がわが国に期待し希望したこと、
それは資本主義の革新であり、その先導役を願ったのだと解釈します。
「タッカー・トーピード 」は消えた自動車ですが、
米国でも映画となって語り継がれていたということです。
コッポラ自身が今もこの車を所有していると聞いています。
是非とも、この映画を知らない方には観られることを薦めます。


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「匿名も実名も仮想ならば・・・」


   


     8月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

デザインの意味は時流で変化。
当然のことだと思っています。
しかし、これもそうなのということが
最近は見かけることが多くなりました。
その逆走が本来のデザインにも目立っています。
デザインされているということが不明、という物事です。
しかし正直、すべからくが「表現活動」であれば自由、
あるいは自由放題をデザインは取組む大きな包容力があります。
だからそれがデザインのたまらない魅力です。
しかし、デザインやデザイナーを敵のごとくとしている人。
そうした人に限って匿名での批判から中傷、非難をしてきます。
それは大変に非生産的なことで無駄です。
けれども時々そうした中傷を受け入れることには、
大きな深度があると私は考えています。
たとえて言えば、被写界深度というのがありますが、
それはカメラのレンズ機能用語です。
被写界深度に対しては焦点深度がありますから、
アナロジー的にとらえれば、
被写界深度はレンズ前の対象物=被写体ですから、
私なり、デザインなりを対象にすれば、
それが投射された焦点深度は、きもちの内部での意味深度です。
きもち内面にどれほど突き刺さってくれただろうかということです。
したがって、「匿名性発言」の深度は、
この図式で受け止めればいいわけです。
ただ問題は、その被写体が仮想であることが多くて、
その発言を受け止める深度そのものが多分に仮想化することです。
そうなると、匿名的であることはかえって、
その匿名性に寄りかかればかかるほど、
その発言者が仮想人間として「自己否定」している人になります。
これが、実名主義であるFacebookの見事さになっています。
このブログの今後のあり方の一つとして、
コメントを受け入れることは、Facebookでは柔軟性があります。
表現活動において実名発言には責務があります。
日本の新聞が記者実名になるまで歴史性がありました。
しかし、この記者実名があっても、
新聞社名での情報操作があれば、参考意見にはなりますが、
それ以上の真実性は求め難いものです。
おそらく、これからのマスコミが、
Social Networkに呑み込まれていくことは明らかです。
ただし、Social Networkで実名主義だからといっても、
そこには限界があるでしょう。
その限界とは「情報」を受けとめる受信者の能力です。
能力といっても、
それはその人の人格から感性・理性・悟性まで含まれます。
結局、情報は仮想化の中では困難だということになるでしょう。
Networkという人工的な仮想性の中では、
「きもち」のあり方が、
さらに訓練されなければならないということです。


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「嫋やかな情報変革が進行です」


   


     8月 21st, 2011  Posted 12:54 AM

すでにメールよりも、
最近はFacebookから入ります。
ブログも、その結果をFacebookで確認。
Twitterでの呟きは、
揶揄されることしばしばゆえ遠のいています。
必ずや焦点化された使い勝手ツールに変貌でしょう。
おそらくかってAppleでの1990年代初めに回帰すれば、
二つの会社が立ち上がりPinkという開発がありました。
あの時の想像力の時代が実現していると思います。
AppleCloudアイコンの黄金比表現なども、
当時にはすでにインターフェイス表現基盤だったのです。
あの頃には日本人プログラマーも、
クパチーノでのプレゼンが連続していました。
狙いは「今」を対象にしていたと思い出します。
あのKnowledge NavigatorはまさにiPadでしょう。
この30年、Appleの予感と予知が今結実しています。
したがって、このところ新たなBlog形式を
まず、エージェント・インターフェイス表現へ、
さらにそのメタ・ブログというものがあるのだろうか、
熟考をしています。
その熟考に寄り添うかのごとく、
「不妊治療システム」での「精子活力判断」が、
1980年代から発想が縛られていることを見つけました。
オックスフォード大開発の自己調整レンズも、
英国の工業システムでの限界を知り尽くしました。
私なりの「平面自由屈折変換レンズ」を
デザイン設計対象にしています。
血圧計は、見事に「欧州血圧学会認定合格」に出来ました。
9月には発売になるでしょう。
ただ、「節電」ということで、
日本の企業全体の活動がとても回転が鈍っています。
この不安だらけの中で、
すべからく、出来れば「嫋やかな」活動を、
情報形式変革が支えてくれることを詳細にすべきでしょう。
ここでの毎日アップも変えていくつもりです。
それは毎日が厳しいこともありますが、
自分なりのambient allianceです。
それを復興計画にも盛り込む必要性を感じています。
先般、セシウム対策アイディアが学者間に回りました。
しかし、私はこのやり方は、
まさに「机上の空論」と思えてなりませんでした。
企業での復興計画の詳細さには、
水・電力・除染・新産業化=雇用政策制度設計、
そして大きな大きな情報変革が入ります。
ライフゲームが曼荼羅に酷似している印象そのまま、
そんな発想です。
おそらく、何を書いているのか論理滅裂ですが、
大きく包み込んで受け取ってください。
それほどに、今はカオスへのモデル化が、
デザインにも問われていて、その基板が、
「嫋やかな情報革新」だと思う次第です。

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「Blog形式変革に喧嘩を売ります」


   


     8月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

私のこのブログは、
すでに4年間毎日記述。
体調が悪くて発熱しようが、
定刻0時を越えて明け方近くであっても、
書き続けてきました。
予定通りのアップがないと知人から心配されたりします。
それはともかく毎日、ことばとかたちに向き合う私なりの決め事です。
私の性格は、一旦ヤルと決めたことは絶対にやりぬくことです。
これは祖父と父からの教えを受け止めてきたからだと思っています。
いわゆる「男の子」(この言葉はセクハラ用語)として、
ヤルと決めた事をやり抜けば、必ずそれは報われるものでしょう。
何が報われるかといえば、極めて「男の子」という望みにすぎません。
しかも私にとってそれは、モノの世界、
自分の日常性を包んでいるモノの体系にすぎません。
たとえば万年筆からファッションでの好きなアイテムだけの世界です。
しかもデザイナーという職能になれた幸運さで、
モノの体系には、素材から製造・生産、そして消費構造までに、
知識より知恵を巡らすことに一喜一憂しています。
オーディオが好きですから、ようやく1万曲=200Gをリッピング。
社会人になった時にはオーディオ、
いや美大の卒業制作も「3Dステレオシステム」でした。
今でいう、2.1ch=左右に中高音で一つの低音(ウーハー)です。
それよりも今、Social NetworkやCloud Computingの
より具体的な展開のなかで、
私はBlog形式をSocial NetworkではFacebookで、
閉じられたCommunityでの発言をしていくべきかと悩んでいます。
すでにデザイナーとして積み重ねてきた記述ノートの公開も、
自分で電子出版形式を取り入れました。
「好き嫌い」を明確な「わがまま」で
記録記述していく時代かもしれません。
実情は、Cloud サーバーの海外企業やSocial Networkでは、
まだまだ概念だけが先行しています。
その代表的な活動に「自分の情報発信性」を開示してみようかと、
私は賢明に熟慮している最中です。
こうした考えを突き動かしているのは、実に曖昧で、
「男の子」としては見過ごせない事が多発し始めているからです。
「時代・近未来に喧嘩を売ります」。
それは、今の自分の残された時間と自分に喧嘩を売るためです。

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「Smart Communityへの社会と人間の進歩」


   


     7月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

TwitterとFacebook。
この二つの登場、
あたかもSocial Networkの時代という印象。
さらに、Smart Gridが加わり、
Cloud Computingは、
かねてより私が予測していた「見えないコンピュータ時代」、
あるいは「コンピュータが消える日」ですが、
私の予測意図にまではまだまだ至っていません。
結局、Twitterは日本語140文字表現の「つぶやき」で、
それなりのコミュニケーションが可能でした。
大震災時に最も有効な通信手段となったことは大きな功績、
このツールがSocial Mediaづくりになりました。
しかし、Facebookについては、
まだまだ日本人には普及しづらいNetwork Mediaだと評価します。
理由は、二つ考えられます。
まず、Facebookが英語的な発想によるインターフェイスであること。
そして実名主義であり仲間意識の判断を明確にするということには、
日本人の曖昧主義では受け止めがたいものなのかもしれません。
PCでのNetworkにはやはりまだ概念でしかありえない、
Smart Gridというインフラが不可欠になっていることは確かです。
その最大の理由は電力というエネルギーと情報を不可分にしてこそ、
ようやく社会構造の全体像=新世界観になると私は思うからです。
そのとき、私は次の二つの言葉は再定義されることになるでしょう。
CommunicationとNetworkです。
一言日本語で言い切るなら、「伝達」と「関係網」です。
つまり、つぶやきでの伝達、その有効性は効能であり、
グリッド化されていくエネルギーと情報の関係性は機能です。
したがって、CommunicationとNetworkの統合化には、
確約された性能性が求められてくるでしょう。
それはSocial Mediaが何になっていくのかという性能が希求されます。
Social Communityが本当にSmart Communityの基盤になる前提です。
Communication・Community、
いづれもCom=二つが対等化するには
まだまだ社会も人間も進歩し直さなければならないでしょう。
この進歩を阻んでいるのは「政治」という手法形式かもしれません。
特に、現在のわが国では「政治」は阻害要因です。

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「大きな変動が始まったネットワーク」


   


     7月 13th, 2011  Posted 12:09 AM

Social Networkの時代。
TwitterとFacebookが、
自分のメールやHP・Blogなどにも
最近は大きく関わりつつあるようです。
特に、海外とのやりとりは、
メールよりもFacebookが中心になってきました。
私は、毎日このようにBlogを書いてきましたが、
Facebookで読んでもらっている方が、
感想や誰が読んでくれているかが明快になってきました。
まだ日本でのFacebookは、Twitterほどにはなっていません。
私はTwitterは時間軸情報であり、
Facebookは空間軸情報という具合にみています。
Facebookのインターフェイスは、
最初、日本人にはとりつきにくい感がありました。
しかし、最近ではこの情報空間こそ、
「アンビエント・アライアンス」に近づいていくと思っています。
「アンビエント」というのはロックでブライアン・イーノが掲げた
ある種の「環境」まさに情報環境のあり方でした。
そして、この情報環境あるいは環境情報の具体さが、
Twitterであり、Facebookになっているのでしょう。
Twitterという「つぶやきコミュニケーション」は、
140文字ですが、私自身はなるべく100文字でを試みたものです。
しかし、こうしたBlogでの毎日の記述は、
Facebookの方が受け止めてもらいやすいし、
正直、Blogでは書き切れない形式と内容は、
Facebookという形式が今は見合っているのかもしれません。
結局問題は、パソコンをツールとしたインターネット空間に、
さらに今後は新たな形式が生まれてくるのではないだろうか、
そんな予感があります。
しかし、私はまだまだ「手紙」という形式を打ち破る発明が、
ソフト的・ハード的に生まれてほしいと思っています。
Ustも最近はFacebookでという試みをしています。
ともかく、「使いこなす」という感覚が重要だということです。
これからの講演内容やデザイン内容も、Facebook中心での
新たなコミュニケーション手法に変動するでしょう。
さて、京都の講演では新たなプレゼン形式を披露します。

「夢の形見に」


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「帰国しての瞬間的な感覚」


   


     7月 1st, 2011  Posted 12:27 AM

北京-大阪=3時間。
帰国して、まずTwitter、
そしてFacebookにアクセス。
Social NetworkとGoogle。
Googleはすでに香港経由で閲覧可能でした。
最近私は、mailよりFacebookを多用。
しかし、北京ではこのNetwork規制がかかっていました。
不便さは、特にこのBlogを伝えられなかったことでした。
講演会後の質問でも、
学生諸君からは、Social Networkの影響という質問もありました。
彼らには、このNetworkの存在をすでに知っていましたが、
中国のいわゆる一党独裁での「情報規制」を客観視していました。
私にはこの「規制」が必ずしも言論統制だろうかと考えました。
政治的強力性がNetwork統制との関係は、
よく考えてみたいと思います。
中国人は、まったくマスコミ報道への信頼感が無いそうです。
かえって、日本は報道が溢れている社会でありながら、
震災後特に原発報道等政権発信に関しては信頼感を失いました。
今、現代中国の体制と日本の体制の大きな違いは、
こうしたSocial Networkが社会制度として、
どれほどの影響があるだろうかということです。
私の瞬間的な帰国感覚になっています。

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「資本主義からの逃走」
   「Visualization情報の多次元化という新コンテンツ産業」


   


     1月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

voir・ avoir・ savoir
情報のネットワーク化基本は「視覚化」。
視覚化とは、「見て分かる」ということです。
英語でそのまま、「I see」に他なりません。
仏語の「voir=見る・avoir=知る・savoir=持つ」も、
「見て知って所有する」という具合です。
情報リテラシーとは、
情報のアイテムである、言葉・文章・図解・絵図・音楽などをコンテンツと呼んでいます。
日本での「コンテンツ産業」の定義は、時代的な即応性や将来性を語りきることなく、
漫画とか映画、アニメーションなどの産業に限定されている感があります。
これはすでに時代的な即応性を欠落してしまっています。
これからのコンテンツ産業というのは、
情報の多次元化とそのネットワーク化へと進化しつつあります。
映画の多次元化=新コンテンツの派生
具体的に言うと、
「映画」がまずコンテンツ産業アイテムとしてありますが、
これが多次元化とネットワーク化していくわけです。
映画の多次元化というのは、
映画スターのファッションや、その撮影場所など、
「視覚化」されたことがまさに仏語のように、映画・主人公やその配役を見ます。
そして、演出道具やファッションや撮影場を知ります。
映画を見て、知って、さらに、そうしたファッションを所有したり、
その場に旅行するという多次元化が起こるわけです。
こうした多次元化全体が「コンテンツ産業」ということです。
多次元化コンテンツのネットワーク
そして、この多次元化されたコンテンツがネットワーク化、
これもこれまでのようなwebsite・HomePageやmail配信の段階から進歩することになります。
twitterやFacebookというSocial Networkになります。
したがって、Social Network上では、twitterやFacebookは、
メタメディア性、ホログラメディア性と私は名付けています。
そしてSocial Networkをも凌駕するContext Dynamics、
あるいは、Syntax Dynamismへと展開していくことになるでしょう。


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「資本主義からの逃走」
   「地デジ化を基本にしたデジタルインフラ化は急務」


   


     1月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

「国家的なデジタル情報化戦略」皆無
この7月には、TV放送は地デジになります。
地デジ化は明らかに政治的戦略のはずです。
政治的といっても、これは貧困な政策にすぎません。
産業的には家電産業の活性化であり、
大衆的に国民購買を強制しているにすぎません。
エコポイント制度も私には、
なんとなく戦後の配給制度(実体験はしていませんが)にしか思えません。
地デジに象徴された、「国家的なデジタル情報化戦略」が皆無だと観ています。
わが国は、TV放映も免許制度ですが、デジタル技術が電子出版によって出版界も、
放送免許制度も、レンタルビデオ商売もすべからく崩壊させていくことは明らかです。
インターネットですら、大きな変革が急激に起動する時代です。
たとえば、私は自分の大学講義はUST公開しています。
TwitterやFacebookというソーシャルメディアへの批判もありますが、
「情報」への欲望は、それこそマルクス的な所有感・使用感を超えています。
デジタル技術はすべからく一新
情報に対する、実名主義=Facebookや掲示板での匿名主義、
いづれも民主主義のある種の開放感や自由性は根本的基盤として人類が確立してきたことです。
この実名主義と匿名主義のバランスが
最も健全な情報化を構築することを文化化と知性化すべきでしょう。
発信された匿名性はほとんど崩壊が始まっていることを実体験しています。
少なからず、その具体例としてのWiFi化はインフラ整備しなければならなくなるはずです。
ケータイもスマートフォンをさらに超越した、
メタ・ケータイ=無料がデジタル国家情報戦略になるべきだと考えます。
その最も手短な地デジの具体例として、私は3D映像を認めています。
韓国では3D放送が開始されようとされている意味では、
日本の政治に「地デジ」の次戦略がありません。
私は、すべからく日常生活での「生活情報のデジタル化」は、
TVと車に集約させる技術開発支援・デジタルインフラ整備・エネルギー供給システム、
これらの政策的制度化は急務だと私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「独裁されてきたケータイからの解放」


   


     12月 4th, 2010  Posted 3:01 AM

鎖国独裁のケータイなり
独自デジタルモバイル方式の鎖国国家は三つ。
なんと日本・韓国・北朝鮮という有様です。
GMSが全世界の標準になっています。
Global System for Mobile Communications=GSM、
これが第二携帯世代(G2)方式であり、約220ヶ国で使用されています。
したがって、この方式を採用しなかった時点で日本は取り残されました。
日本は、「ケータイ」と呼び、KEITAIを世界語にしようとか言っていた通信会社は、
日本国民の「通信権利」を剥奪したのです。
日本人のケータイは、日本流コンテンツとデザインは女子学生ターゲットでした。
この独裁者は誰だったのでしょうか。まさに、日本のケータイは北朝鮮並だったのです。
ケータイという呼び方をしたことが、すでにMobile Phoneと呼ぶべきことを遮断しました。
だから、その形式と内容を外観化させる造形デザインまでが、
通信会社によって独裁操作されてしまったのです。
通信会社がいかに独裁的であったことを日本人は知らなかったのです。
無論、行政はなんら世界標準ではないことを是正させようともしなかったから、
急いでこれから情報通信制度の改革で罪滅ぼしを示す必要があるでしょう。
私は、携帯電話がボックスタイプ、さらに車載から使用していましたので、
携帯電話の機器というモノとそのシステム,さらにプロダクトデザイン対象としてのMobilePhone、
これらの歴史は実体験しています。
ソーシャルネットワークからの制度設計
したがって、iPhoneが米国で発表され発売されたとき、すぐに使い始めました。
これで21世紀が本当に始まったとさえ思ったほどでしたからいくつかそんなことを書いたはずです。
日本のガラケーがやっと解放され始められたと言っても、
通信会社主導では、ただ数年遅れのままが続くでしょう。
単に海外製品を日本の空気=電話回線に乗せたり、
通信会社が海外製の物真似をデザイナーに強制させているだけです。
私は、通信会社こそ、企業のリエンジニアリングとリストラクチュアリングをし、
CSRの改革から制度設計の提案をするべき企業の出現を期待しています。
今、ソーシャルネットワークとしてのTwitterやFacebook、Ustreamにその芽吹きを感じています。
おそらく、ネットワークシステムの時代が革新される新たな提言を希望しているのです。
この思いを共有していただける読者諸兄は多いはずだと確信しています。
最近、海外製の小売り量販や、インターネット借用で大企業となった通信会社から、
「光の道」なる発想がありましたが、私は多くの認識誤謬を見つけています。
まず、「道」ではないのです。
「道」という「ことば」本来の意味さえ知らないタイトルに未来を託すことはできません。


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