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Posts Tagged ‘緊張’


『チョークが教育を変えると今でも思っている』


   


     8月 4th, 2017  Posted 12:00 AM



「チョーク工場」を見学しました。
以前、恩師の命令で金沢美大だけではなくて、
福井大学の建築学科で非常勤講師をしたことがあります。
初めて福井大学に行くと出席簿とケースに入ったチョークを渡されました。
ケースに入ったチョークを受け取って、緊張したことがありました。
今はホワイトボードとマーカーの時代ですが、
黒板とチョークの書き心地がとても好きです。
以前よりチョークがどうやってつくられるのかを見たかったのです。
あるチョークメーカーでは、身障者を工員にしている所もありますが、
その企業社長にあるお願いをしたら、断られて愕然としました。
身障者を工員にしていることは、私には見せかけの善意でしかないと判断。
あれからも後進国への黒板とチョークを探し求めていました。
日本という国は生徒や学生はとてもめぐまれていますが、
まだまだ後進国家では
黒板とチョークが教育現場の大きな教育用具になっています。
そんなことから、アフリカにチューク製造機をプレゼントしている企業、
そこと新たな計画をしたいと思っていました。
後進国では、鉛筆を先生が半分にして
必要な用紙を分け与えるところもまだまだあるのです。
すべて石膏をモロッコから輸入して製造している現場を見ました。
最近は「黒板アート」もあるくらいですから、
著名なデザイナーに「黒板アート風」デザイン展を考えています。
それを「アナログアッサンブラージュ」として、
それこそ、チョークからマーカーまでの「ボード文具」を考えています。
出来上がったばかりのチョークと黒板に
何かしらとても興奮した工場見学をしてきました。


* 『健常者を差別することで社会暗部を照射する』
* 『黒板を集団の発想道具としての未来ボードデザインへ』
* 『黒板メーカー・馬印が実現してくれた「価値」』
* 『石ころとスタイラス』
* 『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』


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『黒板を集団の発想道具としての未来ボードデザインへ』


   


     9月 29th, 2016  Posted 12:00 AM



「黒板アート」本当に凄いと思います。
「黒板」というのは自分らが高校時代ごろから「グリーン色」になったようです。
福井大学で非常勤講師になったとき、新品のチョークを受け取り、
なんだか緊張(普段緊張しないが)して、非常勤なれど伝えるべき事を伝え、
学生に建築家への意欲を持ってほしいと思いました。
数人の個性が建築に向かい、若手建築家も生まれました。
ところが、ホワイトボードがすっかりビジネス場面で用いられ、
さらに大学でもとなったとき車イスでもOKな
特別仕様を造ったぐらいでした。(中央)
なんといっても、いわゆる黒板とチョークは、
カリグラフィーを書くときはとってもしっくりします。
NHKの「ようこそ先輩」では、黒板にしっかりとカリグラフィーで、
デザイナーって流石だろう(うぬぼれにすぎず)と、
名前をいわゆる英文字ゴシック体アルファベットで描いてみせました。
今ではホワイトボードで書道が可能な筆や顔料墨ボトルセットが生まれ、
審査委員会では大絶賛し「日本文具大賞」で優秀賞の表彰をしたほどです。
今、明確に「未来の黒板」が見えています。
すでにデザインモデルは出来上がっています。
絶対にこの時代になると思っています。
黒板、ホワイトボード、未来の黒板、このコンテクストは、
大きな皆で考え合う大切な集団的な発想道具だと思っています。
Back to the Futureの真の意味があるのです。
背中に未来を背負っているのです。


* 『石ころとスタイラス』
* 『黒板メーカー・馬印が実現してくれた「価値」』
* 『商品のシリーズ化』は大きさの性能が全体機能である
* 『毛筆も万年筆も細軸だから可能になる運筆がある』
* 『Macの進化と自分の進化は使い分けるべきでしょう』


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7月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 25th, 2012  Posted 11:25 PM

7月25日 赤口(丁亥)

発表者のなかには、
用意してきたシナリオから
少しでも話題がずれたり、
順番が狂ってしまうと、
それでかえってパニックになり、
よけいな緊張を強いられてしまう人を見かける。

何がなんでも、
順番に発表の目次・順序を守っていく
という心の縛りを、
シナリオは作り出してしまうものだ。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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「最高級品・アストバリーの技法を超えるには」


   


     3月 13th, 2012  Posted 12:00 AM


「ウェッジウッド」は英国では
コーポレート・アイデンティティによる企業経営のお手本でした。
C.I.を根本にした企業ゆえに、ものづくりは無論のこと、
労使関係から顧客管理までが理想的な企業だったと評価しています。
この企業のC.I.が世界的な
企業経営でのC.I.戦略に適用されてきたと思います。
しかし、2009年、この企業が経営破綻しました。
私は大きなショックとともに、
資本主義経済社会の終焉を
この企業の商品展開そのものの時代が終わっていく実感を感じました。
「アストバリー」と呼ばれる商品シリーズがあります。
現代おそらく最高の陶磁器技術によって最も高額な商品だと思います。
フルセットで1000万というほどの陶磁器です。
22金仕上げのこの商品は、すでに美術工芸品です。
商品価格で高級品というのは、私の美学性では相容れないことですが、
ティーポットが50万円、ティーカップ・ソーサーが25万円、
この市場価格というだけの陶磁器表現だろうか、
このことを詳細に検討してみる必要があります。
そうしてもっと重大な問題は、
陶磁器産業そのものが現代性を失ってきているという現実です。
これはわが国の陶磁器産業・伝統的陶磁器産地の
経済的な生き残り方を見い出す必要があります。
これまでの陶磁器有名ブランドさえも
ブランド価値を怪しくしているのです。
むしろエルメスの陶磁器が世界中の陶磁器技術を、
ブランド存続価値に見事に取り込んでいます。
したがって、私もこのアストバリーは
一つづつコレクションにして、詳細な検討をしてきました。
日常使いには緊張させられるほどのモノです。
けれども、この商品を所有し使用して、
その傍に私の陶磁器へのアイディアや発想、
そしてプロトタイプを置いて比較することが実務だと思ってきました。
このアストバリーから見えてくるのは、これだけの技術であっても、
その商品価値は世界的にも見限られたのでしょう。
ある意味で、
陶磁器の新素材開発・釉薬・焼成・仕上げなどを革新しなかったことです。
すでに陶磁器は一方ではセラミックス技術や、
釉薬での化学反応だけではなく電解質内変化など、
もっと陶磁器産業の根本変革が
あることに到達してこなかったからと考えます。
私はその革新をデザイン手法で導入したいと思っています。


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『資本主義からの逃走』
    「気楽・緊張の『会話』が、最も簡潔さを引き出す」


   


     12月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

デザイン手法は会話
デザイン手法に「会話」が手がかり。
40年デザインに関わってきた経験です。
この経験値から、デザイン手法とデザイン造形を伝えます。
まず、「私」がデザインしたいモノを見つけます。
そしてひたすらそのモノの造形にだけこだわります。ことば・図・スケッチ・図式・数式です。
私はそうした独り言をそのデザイン対象のモノに語りかけています。
そうして、そのモノをどうして自分=一人称が、二人称となる「あなた」を見つけて、
そのモノを語ります。
無口さ・饒舌さ
ただし、この語り方・語り口は、二通りしかありません。

 ・無口・一切言葉無く、「あなた」に差し出すだけの時もあれば、
 ・饒舌・もう自分の持っている語彙の限りを尽くして喋ります。

この会話、あるいはモノにだけの対話は、気楽なこともあれば、緊張極まりないときもあります。
そして、この一人称と二人称のinclusiveに、
三人称である誰かに、そのモノの造形を伝えるときになって、
その造形されたモノの「かたち」が語り出すかもしれないことが、
実は、「コンセプト」と「言い切ってしまう一言」だと確信しています。
不要なコンセプト
「言い切ってしまう一言」は、可能なかぎり簡潔であってほしいのです。
この簡潔さが「美しいかたち」の母体です。
なぜなら、気楽な相手であろうが、緊張する相手であろうが、
たった一言で、その「かたち」がきれいでさらに美しいと言い切れるなら、
二人称=2nd personも三人称=3rd personも、
説得と納得というコミュニケーションが可能になると確信するからです。
つまり、この簡潔さである一言さえ不要なら、
デザインにコンセプトすら不要だと考えています。
無論、デザイナーになっていくトレーニングのために、
コンセプト=ことばからデザインをしていく手続きを教えることは不可欠ですが、
いづれ、そのようなコンセプトなどは全く不要だと宣言しておきます。
語彙を持つ才能
そして、語彙=ボキャブラリーには記号も図式も数式も必要だということです。
無口な語彙性と饒舌な語彙性に、気楽な自分と緊張する自分という一人称だけが、
モノの造形・かたちを創り出すことができるのです。
ただし、この一人称になりきれる存在を才能と呼んでおきます。
つまり、「かたち」を創れる一人称は限られているのです。


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『資本主義からの逃走』
 「白日夢の幻想が・・・創造に向かうとき」


   


     6月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

白日夢
ここでの論理を終盤に向かって収束と集約をさせていきたい。
そうなれば「形態学序説」をもう一度しっかりと読み直そう。
そう思いつつ、
「白日夢」という言葉は明快で明確ですが、
結局は、「うすらぼんやり」しているだけの意味にすぎません。
私も叶うなら、連日、うすらぼんやりしていたくてたまりません。
確かに、私自身デザインに夢中なとき、
それは「緊張」と「白日夢」が交互になっているとも考えられます。
あるいは麻酔でとてもいい気持ちという感覚と同等な空意識があります。
白日夢の中で書き残されたのでは、という小説もあります。
太宰の作品には、それを感じ取ることがあります。
しかし、文章や言葉と対峙している感覚が、
白日夢的になるという体験を私はしたことがありません。
けれども、スケッチにともかく集中していて、
頭の中が本当の空白状況になることはしばしばです。
Morpheusが入り込む
そんな時、私はMorpheusが、私の中に入り込んでいて、
ほとんど空白と空虚の狭間に自分が浮かんでいると、
後で悟るのです。
それから、私はボールペンスケッチに色鉛筆着彩をします。
これはもう夢中になるのです。黒と色彩にのめりこみます。
Morpheusの意のままになっているのかもしれません。
そして、「コレダ!」という瞬間で白日夢から目覚めます。
幻想・カオスから創造
おそらくこの状況・状態は「幻想」の中に自分がいるのだろうということです。
「幻想」あるいは「幻想論」をひとまず纏めたいと思いますが、
それは、すでに「幻想」の否定論になりそうな気がします。
つまり、「幻想」だけに、
「幻想は幻想の中で」、
「幻想には幻想だけを」、とも想っているのです。
幻想×幻想=白日夢=カオスだとするなら、
明快さも明確さも際だっているわけではありません。
パウル・クレーは、このことに浸りきっていたデザイナーだったのだろうと推測します。
幻想こそ、カオスならば、
そこから幽体離脱を果たしたとき、
「ある・かたち」に辿りついているのです。
私は、この瞬間こそ「創造」だと想っています。


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